防犯カメラとネコに罪は無い
「遠隔操作PC事件」の容疑者が逮捕されたとのこと。
これまでの警察、関係当局の失態ぶりを見ていると、彼を”真犯人”と言うことは今暫く憚られる。そもそも、事件名も先の言い方で良いのかよく分からない。
今の世相を表した「劇場型犯罪」と、面白可笑しく言っているマスコミもある。昨年後半から世間を騒がせた事件もようやく解決に向かっているのかも知れない。
容疑者逮捕の決め手は、またしても”防犯カメラ”だそうだ。
最近は事件解決の決め手に、このハードウェアが出てくることが多くなった。
現下の犯罪捜査はもとより、今後の事件未然防止の面でも、重要な役割を果たして行くかもしれない。
それはそれで良い。
技術革新が人を幸せにする。それは良い。
しかし、あのシロモノ、本当にこのまま放っておいて良いのだろうか。イギリスのテロ事件を防止したように、使い方によっては極めて有用なツールとなる。
しかし・・・、だ。
IPアドレスだけで犯人を特定し、善良な一般市民を誤認逮捕、そして、無理矢理自白に追い込み、調書をでっち上げ、送検してしまうような捜査当局と、”ソースコード”という遠隔操作ウィルスが、重要な役割を果たしたかのような報道(もちろん、そんな名のソフトは存在しない:ソースコードとは原始プログラムのこと)をガンガンやっているマスコミを野晒しにしておいて、あのプライバシー侵害しまくりのハードを野に放ったままにしておいて、本当に大丈夫だろうか?
多くの人達は、日常録画されている街中の映像は、犯罪捜査にのみ限定的に用いられると想定しているのであろうが、それは楽観し過ぎではないか?
いつ、悪意を持った管理者によって、ゆすり・たかり、嫌がらせに使われないとも限らない。
まさか、と思うような立場、役職、職業の人達が訳の分からない犯罪(例えば盗撮、ストーカー等)に手を染めるケースは山ほど見ている。
そんなのは一部であって、他の99%の人たちはまともに・・・、というのはワイドショーの司会者のセリフであって、根拠のない楽観論だ。
私が指摘したいのは、万が一のことを考えて、相応の防御手段を記録媒体(録画映像のこと)にとっておかないと、どのような悪用をされたものか分かったものではない、ということだ。
一連の”防犯カメラ”による手柄は、私達の日常は、意図しない他人から監視されているかもしれない、ということを意味している。
そんなことが簡単に許されていいものではない、と思う。
日本にはまだ、プライバシーに関するコモンセンスが出来ているとは言い難い。個人情報保護法の取扱い一つを見ても、法の趣旨も鑑みず悪用、誤用されまくっている。
プライバシーとは、 USAでは"right to be left alone"、放っておいてもらう権利、というそうだ。
如何なる人も、特段の理由が無い限り、自らの意志を無視して他人からの一方的介入を認めるべきではない、と私も思う。
近代においては、基本的人権の一部であると思う。
これは犯罪捜査に協力しない、と言っているわけではない。
昨今のマスコミの実名報道をめぐる一件を見ても、日本の捜査当局、報道機関に節度、良識、判断力を期待することは無理と考えざるを得ない。よって、我が身は、自分で守り切るしかないのだ。
私達が、日常生活をする上で、あのカメラは邪魔だ。
”万が一”、というが、そのためだけにあのようなものを街中に設置して本当に良いのか?
いつ、誰と、どこを歩いて、何をしたかまで撮られている可能性があるということなのだ。一体全体、何を理由に、そんな目にあわないといけないのだ。
それも、このことは当人の同意なしに一方的に行われている。
”防犯カメラ”は単なるカメラであり、”防犯”専用に作られたものではない。
犯罪以外のものもバシバシ映す。
映した後の取扱いは、それを扱う人の人格に全て委ねられる訳だ。
こんな恐ろしい仕掛けはないと思う。
私は今の”街中カメラ”の運用は心配である。こんなものに犯罪捜査の中枢を頼ってはいけない。一定の犯罪抑止機能は果たすかも知れないが、「カメラが見ているから」というのが感情抑止や倫理の基軸にくるのはおかしいだろう。
せめて、神様が、ご先祖様が見ているから・・・、ではないのか?
これを便利と思うのは、大いなる錯覚だと思う。
いつか、これを悪用した事件、犯罪が起こらなければ良いが、と心配するばかりだ。
今、彼女、奥様以外(彼以外も同様)の人と街中を歩くことがある人は、もしもに備えて、立派な言い訳を考えていた方が良い。
ただし、今回の事件で言えることは、”防犯カメラ”と”猫”に罪は無い。