元禄15年12月14日の奇跡
時は1703年1月30日、早朝6時頃。今から遥か300年も前・・・
土屋主税は、大きな物音と怒濤の叫び声に驚き、飛び起きた。
これまでに聞いた事の無いような喧噪は、お隣の屋敷から聞こえた。どうやら、この寒い冬空の下、押し込み強盗が入ったようだ。家来が寝室まで駆けつけて来た。
「旦那様、吉良様の屋敷に異変が・・」
「うむ」
「押し込み強盗でしょうか?」
「私もそう考えたが、違うな・・・。陣太鼓の音が聞こえる」
ドン・ドン・ドドン・ド〜ン・・・・
「あれは、1打、2打、3流れ。山鹿流陣太鼓だ。」
塀の向こうから誰かが叫んでいる。赤穂浪士と名乗っている。主君の仇を討つ為に宿敵吉良義央屋敷に討ち入った。どうか、傍観して欲しい、と。
主税は、「あい分かった。思う存分働かれるが良い」旨のことを伝え、塀沿いに提灯を掲げさせた。そして、家臣達に指示した。
「かかる状況下、塀を乗り越え、逃亡を図ろうする卑怯者がいたときは切り捨てよ」
主税は「旗本」という立場にある。
今、元高家の身分にあったお隣さんが浪人達に襲われている。本来であれば、救援に駆けつける選択肢もあったはずであるが、彼のとった行動はその反対であった。
これは、傍観というよりも赤穂浪士への消極的助太刀とも言える振る舞いだった。
「しかし、マジかよ。本当にやっちまったんだ。大石内蔵助・・・」
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有名な「忠臣蔵」の1シーンだ。
本当かウソかは分からないが、当時の江戸町人たちだけでなく幕臣までもが「討ち入り」に肯定的であったということを示すエピソードの一つとしてお約束のように紹介される。
山鹿流陣太鼓のシーンは、「仮名手本忠臣蔵」に出て来る逸話らしい。
しかし、子供の頃からこのシーンを見慣れている私は、このような儀式は「切腹」と同様に武士の習わしであると思い込んでいた。
仇討ちに当たっての「口上書」を木にはさんで屋敷の門前に突き刺す、という振る舞いもそうだ。
忠臣蔵には、多くの逸話がある。
・大高源吾の橋上での俳人仲間と歌の読み合い
・赤埴重賢の兄の羽織を前にした一人芝居
・南部坂における瑤泉院と内蔵助の別れ
・内蔵助と垣見五郎兵衛のやり取り(勧進帳みたい・・・)
・堀部安兵衛と畳屋万五郎の友情(畳替えの場面)
・山科での内蔵助と妻りくとの別れ
等々。
これらの逸話が今でも語り継がれるのは、その内容・描写が当時から現在に至るまで、日本人の心情・美意識によほど合致していたからだろう。「忠臣蔵」には日本人の心が描かれているのだと思う。
さて、改めて驚かされるのはこれが300年前の「本当にあった話」であることだ。
江戸城松の廊下での刃傷事件が起きたのは、1701年4月21日。討ち入りは、それから凡そ1年9ヵ月後の出来事だ。
現代風に言えば、「赤穂浪士」にとっては一大プロジェクトになる。
一体、このプロジェクトはどのようにして計画され、実行されたのであろうか。
謎は沢山ある。
・資金源は何か
・武器調達をどのように行ったのか
・47名という少人数でどうやって百人を超えるとも言われる相手方と戦い勝利出来たのか
・長期にわたり同士の結束はどうやって保たれたのか
・複雑な襲撃計画は誰が考えたのか
・泉岳寺で自決せず幕府に申し出るという政治的行動は誰の発案なのか
・そもそも、何で計画が露見しなかったのか
資金は瑤泉院が工面したとの説もあるが、本当だろうか。内蔵助と瑤泉院ができていた、などと言うエピソードも聞いた事があるが、これはマスオさんとタイコさんが不倫しているみたいで気持ちが悪い。考えたくもない。
武器調達は、簡単ではない筈だ。日本橋界隈で鍋を買うのとは訳が違う。当時は、幕府御用達の業者がいた筈。通常、そこから横流ししてもらうしかないと考えるが、本当にそんなことが幕府にバレずに可能なのだろうか。
早朝、不意打ちで討ち入ったとは言え、今で言うと白兵戦での近接戦闘だ。47人でよく制圧出来たものだ。軍事訓練はどのように行っていたのであろうか。皆、浪人してるんだから剣の腕前も鈍るだろうに。
年末に討ち入り用の吉良家見取り図が新たに発見されたとのニュースを聞いた。この見取り図、どうやって作成したんだろう?まさか、本当に大工の棟梁の妹を騙して盗み出したのだろうか。
林大学と荻生徂徠が口論した結果として、赤穂浪士は名誉の切腹を賜ったのだろうか。
謎は尽きない・・・
そう言えば、内匠頭と上野介の喧嘩の理由って何だったのだろうか。
これが最大の謎だ。
嫌がらせか、乱心か。それとも赤穂の塩、あるいは瑤泉院をめぐる色事?
大晦日、「時代劇専用チャネル」で里見浩太朗主演の忠臣蔵が放映されていた。
それを見ながら、日本人の美意識とプロジェクトの謎を考えていた。
311年前にあった奇跡の物語。