オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

ここは「開かずの踏切」

 ローカルな話だが、戸塚駅の高架橋「戸塚駅大踏切デッキ」が開通した、とのニュースが流れていた(NHKニュースや日経の地方欄で紹介された)。

 横浜市の一角の話題とは言え、この辺りに住んでいない人にはさっぱり意味不明のニュースだろう。

 しかし、地元では中心地の東西を分断していたこの「大踏切」をバイパスする車道、高架橋が完成することの意義は大変に大きい。

 あの宰相、吉田茂をも苛つかせたという有名な「開かずの踏切」がついにブリッジ(改善)されるのだ。

 このプロジェクトの歴史は古く、聞くところによると、構想から何と50年以上もかかっての完成との事。

 戸塚は、古くは東海道の宿場町、今は横浜の中枢市街地であり、東京〜横浜をつなぐ主要拠点の一つだ。

 で、あるにもかかわらず、ここにある「大踏切」が戸塚の東西を完全に分断していたのだ。一度、車で走ってみると分かるが、この踏切が閉まっている時のこの地域のアクセスの不便さは相当なものだ。

 年始恒例のイベント「箱根駅伝」に登場する戸塚中継所は、誰でも知っていると思うが、あれは「横浜新道」の途上にある為、選手達は「大踏切」を通過しない(旧1号線をバイパスしている)。

 もし、ここ(大踏切)を経路としていたら、蒲田や箱根登山鉄道の踏切と同様、駅伝の名物になっていたと想像する。

 

 ここは「開かずの踏切」・・・

 朝夕一時的にではあるが、東海道はここで東西を分断されているのだ。 

 

 調べてみると、横浜新道が第3京浜と繋がったのは1968年。保土ヶ谷バイパスが開通したのが1973年。つまり、この段階で横浜新道は、東名高速あるいは第3京浜を経由で、東京と接続されている。自動車道として。

 しかし、旧国道1号線自体が踏切なしになるのには、これからさらに41年かかっていることになる。

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 いくらなんでも、時間かけ過ぎ(かかり過ぎ)だと思う。

 若い頃、戸塚旭町通りの飲み屋やスナックでよく飲んでいたので、理由は知っている。

 商店街が再開発に反対していたからだ。特に、西口の。

 よって、戸塚駅前の再開発は東口から行われた。

 

 やがて、東口は見違えるように美しく整備され、サンテラス(ユニー)や有隣堂、丸井などが立ち並ぶようになる。

 この頃の、戸塚駅を挟んだ西口と東口の格差は酷いものだった。

 昭和の商店街 VS 平成のショッピングモール、って感じ。

 そしてそれから、さらに20年近くが経った・・・

 東口に、今はもう丸井はいない(撤退した)。

 ラピスに入居しているテナントには、以前は東口にあった小さな店が多く入居していたが、今は相当異なっているようだ。

 今、西口には、「トツカーナ」ができ、旭町商店街にあったお店が幾つか入居している。

 天ぷら屋、おもちゃ屋、理髪店などは、以前(商店街の時)と同じだ。しかし、店主が同じなのか世代替わりしているのか、までは分からない。

 ひょっとして、店主の世代交代が、再開発の後押しをしたのではないか、とも想像している。であれば、時間はかかったが、それは必要なものだったのだろう。

 戸塚は、東西共に、今見違える程近代的な町並みになった。

 しかし、残念ながら今の戸塚には90年代初頭ほどの活気は感じられない。

 あくまでも、個人の印象として・・・

 駅前にマンションは増えているので、人口は増えているのかもしれないが・・・

 

 私は、戸塚は何だか、機を逸しているような気がする。

 何の機会(チャンス)であるのか、うまく説明出来ないのであるが。

 もっと早く出来なかったのだろうか・・・。少なくとも、あと20年早く完成出来なかったものか。

 あの頃、戸塚から離れた、あるいは関係が薄くなった人は結構いると思う。

 

 上下の跨線橋完成が戸塚の賑わいに繋がる事を祈りたい・・・