オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

プラハの春

 1968年8月20日午後11時、ソビエト軍を主力とするワルシャワ条約機構軍は、チェコスロバキアの国境を越えた。その兵力は、ざっと兵士145,000人、飛行機800機、戦車7000両。

 プラハの放送局は臨時ニュースを伝えた。

 「ラジオをつけておいて下さい。放送局の上を飛行機が飛び続けています。政府からの指示はまだありません。ソ連兵を挑発しないで下さい。砲撃するかもしれません。ソ連軍を追い返すには別の戦い方を考えなければなりません。」

 翌朝までに、プラハ共産党本部を含む主要施設の全ては制圧された。

 チェコスロバキア共産党第一書記のアレクサンデルドプチェクは、ワルシャワ軍によって即刻逮捕、連行され、プラハから連れ去られた。

 「これは、一体どういうことだ?ブレジネフ(ソビエト連邦共産党書記長)は、ブラチスラバでの宣言を反古にするつもりか!」

 2週間前、ドプチェクブラチスラバでのワルシャワ条約機構首脳会議において「各国の党はその問題を独自に解決し、その国の人民に責任を負う」と、ソビエト連邦共産党書記長ブレジネフとの共同声明を発していた。

 「これは、主権侵害だ。ワルシャワ軍によるチェコスロバキア民主化への軍事介入だ。あの時、ブレジネフは『国境不可侵』を公言したのではなかったのか・・・?」

 プラハ市民は、戦車により占拠された放送局の前やヴァーツラフ広場の前で絶望的な抵抗を試みていた。

 ある若者がソ連兵に言った。

 「あなた達はここに一体何をしに来たのか?」

 「これは、反革命だ」

 「そんなことはない。それについては議論する必要がある」

 兵士はそれには反論せず、若者に機関銃を突きつけた。

 

 ドプチェクチェコスロバキア共産党第一書記に就任したのは、この年の1月だ。彼は就任以来、国を取り巻く経済・産業の閉塞状況を打開するために、矢継ぎ早に改革を行った。

 

 例えば、

週休2日制導入

・フレックス勤務導入

・検閲の廃止

・議会政治の復活

・言論・集会の自由

・旅行や移住の自由

市場経済の導入、等

 これらは、当時の共産主義圏においては改革であった。また、反体制、体制離脱を意味する逸脱行為でもあった。

 チェコスロバキアにおける、これらごく当たり前の施策が、ワルシャワ条約体制への批判、社会主義体制破壊運動の序章と捉えられたのだ。

 そして、6月27日に発表された「2000語宣言」は、これより前に軍事演習を口実にチェコスロバキア国内に駐留していたワルシャワ軍とソ連共産党本部に、軍事行動・侵攻の決断を促す格好の材料となっていた。

 予兆はあったのだ。

 ごくごく普通の自由を求める市民達は、無暴力による抵抗を続けた。放送を咎められたスタッフ達は、地下に潜り「民主化を求める放送」を継続した。

 ブレジネフはドプチェクに対し、ワルシャワ軍の強大な軍事力を背景に、国としての民主化改革の方針を採択した第14回党大会の無効化とソ連軍の一時駐留を要求する「モスクワ議定書」へのサインを強要した。

 ドプチェクは頑として首を縦に振らなかった。

 「私は間違っていない」

 彼には信念があった。

 プラハ市民も皆、ドプチェクを信じていた。「未来」を信じていた。

 しかし、・・・

 

 

 8月26日、ドプチェクは「モスクワ議定書」についにサインした。

 ブレジネフは、あからさまな恫喝をしていた。

 「市民がどうなってもいいのか?」

 

 ドプチェクはサインの理由を後日語っている。

 「人々が武器を持たずに戦車に立ち向かう事態を防ぎたかった」と・・・

 

 ”プラハの春” は短かった。

 そして、プラハには長い冬が舞い降りた。

 「粛正」と「正常化」という名の冬が・・・

 

 「ビロード革命」と誉れ高い名で形容される無血革命が実現されるのは、それから22年後のことである。

 チェコスロバキアは、その後、チェコスロバキアに分離した。

 しかし、この国の民衆達が見せた、「自由、希望」獲得への信頼、行動の軌跡と無暴力による革命実現の経緯は、深く歴史に刻まれるものと思う。

 プラハは「世界でもっとも美しい街」と言われるそうだ。

 そう、雨のプラハ城は美しかった・・・

 

 ウクライナ情勢を見て、思わず「プラハの春」を連想した。

 如何なることがあろうと、国境を戦車で越えるようなことがあってはならない。