憲法の死
2014年7月1日、日本からいくつかの尊い価値観・理念・信念が失われた。
正しく物事を考え、正しい手段でことを進めるという「正道」が失われた。いや、特定の職業人に殺されたのだ。
殺されたものの一つ、「日本国憲法」。
この100とあと少しの条文で構成される近代成文憲法は、そもそも憲法違反の状態で選出された国会議員で構成する内閣の閣議決定によって、この日死んだ。殺された。
政府は、自らの政治機構を制御するOSを自身で破壊する愚行を犯した。
もはやこの「なんとか憲法」に、その条文に、何が書かれていようとも、遵守する必要はなくなった。
皆、各々の価値観で白だ黒だ、右だ左だ、IN/OUTだ、と都合の良いように解釈して良いことになった。
そして、その時代に、最も権力を持ったものが、憲法の理念とは関係なく、やりたいように行政してよい統治の仕組みがこの国に導入されたのだ。
独裁国家に憲法が存在するのかは知らないが、少なくとも、立憲君主制のこの国にあって、総理大臣が憲法を勝手に解釈して良いとは知らなかった。私の勉強不足だ。
少なくとも私は、高校でそのように習った記憶はないが、どうやら思い違いだったらしい。今度生まれ変わったら「公民」の授業はちゃんと受けようと思う。
もう、今後、永遠に、この国の憲法が国民投票によって改正されることはないだろう。
何故なら、解釈変更で何でもできるのだから、面倒な手間をかけてまで憲法改正を行なおうとする政治家が将来現れるとは到底思えない。
皆、現政権のやり方を踏襲する。
とても効率的だ。
憲法改正手続きは、憲法自体に書いてあるのだが、その禁止条項を変更するにあたって、その手続きを守らない政府・政治家が出現したのだから驚く。
恐らく、自身が憲法違反の選挙で選ばれた自覚が強いから出来るのであろう。
もはや、憲法なんてあって無いようなものだ。
「日本国憲法」は、今後も都合良く解釈されながら流用・乱用され続けるであろう。
そういう意味で「日本国憲法」は、”死んだ” が、一方で永遠の生命を得たとも言えるだろう。
今の姿のままで、永遠に生き続けるのだ。
守られることのなかった究極の平和憲法として・・・
「政治家」も死んだ。
この国の政治家は「職業人」が多い。
だから、爺様だとか親父殿が同じ職業であった輩が多い。
世襲で、延々とこの高貴な職業を家業として継承しているのだ。
現代の世襲政治家が、親から累々と受け継いでいるのは才能・財力だけでなく、信条・理念・哲学・矜持というものも含まれていると勝手に解釈していた。
しかし、全くそうでは無かった。
彼らは、既得権以外の何物も引き継いではいなかった。あの70年前の ”記憶” ですら・・。
「もう二度と若者を戦場にはやらない」
「二度と国民に苦渋の人生を強いたりしない」
70年前の夏、父親・爺様達政治家は 皆、そう誓った筈だ。
しかし、その息子・孫達は、国際情勢の変化を理由にタブーを犯した。
70年前、アジアの解放を理由に民族を滅亡寸前にまで追い込んだにもかかわらず、今回またもや開けてはならないパンドラの箱を開けた。
理由は、自身が「政治家で居続けるため」(「選挙で公認をとるため」)だ。
これは、へ理屈を付けて国民を自分自身の利益のために「売った」に等しい。
政治家は「何だかんだ」と言ってはいるが、この”愚行”の責任は取らない。
将来、この国と国民が紛争に巻き込まれることがあったとしても、その時「切腹」する政治家はいない。「そんなこと知らない」でおしまい。
政治家の矜持など、先日の都議会でのいざこざ(セクハラ発言)を見ていれば分かる。
この国の政治家は、不誠実で嘘つきで無神経で無責任だ。
およそ、人間とは思えない薄汚い特殊な生き物だ。汚水の中でしか生息出来ない。
今回、改めて高貴な職業としての「政治家」というものが死滅していたこと、その職業倫理が失われていたことを実感させられた。
そして、愚行に賛成・同調した「平和の党」も同時に死んだ。
政教分離の原則は憲法解釈に起因しているが、今回の政府の暴挙により、めでたくこの宗教団体・政党は、その存在を認知された。
何故なら、政教分離以前に、それを謳った憲法が「有名無実化」したからだ。
もはや、だれも彼らの出自を責めることはできない。
今や、彼らは「与党様」なのだ。恐れ多いことだ。
この機構は、これまで死に体、であったが昨日臨終を迎えた。
名実共に逝去なされた。
70年前、死んだか、と思われていたが、いつの間にかゾンビのように蘇り、この国の言論、報道をミスリードし続けてきた。
過去の愚行に反省した結果、国家権力を監視・牽制し、その横暴・暴走の防波堤になるべきシステムであるはずなのに、「特定秘密保護法」「消費税増税」「法人税減税」「原子力行政」等、多くの法案審議において政府の片棒を担いできた。プロパガンタと言われても言い訳出来ないほどに。
今回も、政府の横暴を指をくわえて見ていただけ。
閣議決定されてから、ピーチクパーチクさえずっているだけで役立たず。
今や、”新聞” がトイレットペーパーにすら機能・効用の面で劣ることが明白になった。
「新聞は自死した」
国会、(最高)裁判所は、これまで「生きているフリ」をしてきただけで、実はとっくの昔に死んでいた。
昨日、逝った訳ではない。
思い出せないくらい、結構昔に既に死んでいる。
だから、死んだ子の歳を数えるようなことは止めておこう。
我々、国民も考えるべきことがある。
「世論」もとっくに死んでいるのだ。
世論調査で、今回の事案の賛否について「どちらとも言えない」「分からない」と回答している人は、自身の思考能力を疑った方が良い。
こんな単純な問いに、yes/noが言えない大人は、自己の知性が深刻な状態にあると考えた方が良い。間違いなく思考停止している。
因みに本件に「正解」など無い。
yes/noのどちらの回答があって当たり前だ。
問題なのは、このようなことに「回答出来ない」ことなのだ。
日本国民の知性と世論は死んだ。
もう一度、原発事故が起きないと原子力行政と業界意識が変わらないのと同様に、集団的自衛権行使とやらで、その現場に立った隊員に人的被害が出ない限り、この国の政治家や役人、関係者は、自分たちのやろうとしていることの本質を理解しないのであろうか。
「解釈変更」で国民の安全を守ることなど絶対にできない。