決断の基準
69年目の「原爆の日」。
先日、エノラゲイの搭乗員の最後の一人が亡くなったとの訃報を聞いた。
彼は、原爆投下が終戦を促進した、との理念を最後まで堅持していたとの事。
USA側にだって戦死者がおり、その遺族は存在する。
勝者には、勝者なりの言い分と理論がある。
70年前の戦争を賛辞する関係者など、どこにもいない。彼だって好んで落とした訳ではないだろう。
その主張を認めたくはないが、相手側の理屈を全て否定出来るものではない。
原爆という超兵器の破壊力が「戦争終結への動機を生み出した」という主張を被爆した側として断固として受け入れられないのであれば、その一方で、ではどうすれば、あるいはどういう基準であれば、日本国は降伏を決断できたのかについて考えておく事も時には必要だろう。
そもそも、戦争をしかけたのは日本の方だ。
USAがイングランドと結託し、日本を経済封鎖に追い込み、戦争にけしかけた、挑発した、との言い分もあろうが、そのような事態は日中戦争を始めた時から予想出来ていたはずだ。
日本の言う「大陸への進出」とは方便で、中国を植民地化しようとした事実は消えない。満州を踏み台に、中国に対し侵略戦争をしかけたのは日本だ。
当時は中国への侵攻の名分に「バスに乗り遅れるな」との言い方がなされたと言う。早くしないと、別の人(他の国)が食っちまうよ、という事だ。
はじまりはここからだ。
USAとの対立が決定的になりがらも、外交交渉は続けられていた。しかし、その時点で日本は対米開戦の基準は持っていた。
そして、その判断基準に基づきハワイの太平洋艦隊を空襲し開戦した。
日本軍は対米戦争の不利を承知しながらも「戦はやってみなければ勝敗は分からない」と嘯き、先制攻撃をしかけた。
では、日本は戦争の勝利の基準をどこに置いていたのであろうか。
・ハワイの占領
・ワシントンの占領
・USA大統領の捕縛と処刑(イラク戦争と同じ基準)
どれだろうか。
相手側の戦力を壊滅させたとき、という基準はあり得ない。
それは、「終わらない戦争」を意味する。
当時の日米の経済力、工業力、即ち「戦争維持力」の差は圧倒的。敵兵力の殲滅など不可能だ。
将棋であれば「王将」を取ればおしまい。
では、国同士の「戦いの終結」は何を基準に行われるのか?
ベトナム戦争には見出せなかった。そしてUSAはその戦いに敗れた、と現代史では理解されている。
敢えて言えば、相手側の殲滅、民族滅亡しか念頭に無いだろう。だから40年以上も戦い続けている。
決して彼らに「戦争への情熱」があって、それが行動基準になっている訳では無い。
彼らは、親・子供を対峙国によって殺されている。
だから戦争を止められないのだ。
停戦協定が幾度も反古にされるのは、それが平和をもたらしても「戦いの終結基準」に達していないからだ。
平和 < 報復 の図式
憎しみと報復の連鎖
グアム、サイパンで日米の機動部隊が決戦したのは、1944年6月。
この時、日本軍はUSAにより機動部隊を壊滅させられた。
この海戦以降の連合艦隊には、空母が残っていても飛行機を操縦出来るパイロットがいなかった。
これで戦いが継続出来る訳が無い。
グアム、サイパンを失っても日本は降伏しなかった。確かに、機動部隊が壊滅しても瀬戸内海には、足の遅い戦艦群が残っていた。
まだ、戦えると信じていた。
しかし、グアム、サイパンを失うという事は、B29による日本本土空襲を可能にする。この発想は大本営にはあったのだろうか。それが何を意味するのか、最悪のケースを、ゲルニカを想像出来ていたのだろうか。
それは、1年2ヵ月後にやってくる・・
この島をめぐる争奪戦により、日本の守備隊は全滅している。
サイパン島のバンザイクリフに行くと、今でもその戦いの跡を確認する事が出来る。
フィリピン沖で連合艦隊(空母部隊は既に無い)が壊滅したのが、1944年10月。
瀬戸内海に繋がれていた使い道の無い戦艦群は、この海戦で消耗された。
硫黄島が陥落したのが1945年2月。
ここに至っても日本は降伏しない。
硫黄島に飛行場を作ると、B29で日本を空襲しても楽に日帰りが出来る。無差別爆撃がピクニックに変わる。
既に日本には本土を防衛する組織も兵器も無かった。日本の空はガラ空きだった。
日本の都市は、なす術も無く爆弾・焼夷弾の雨を降らされた。
人々は逃げ回った。
そして、軍隊は、国民・非戦闘員を守るためにではなく、国体維持のために組織されていたことを国民は初めて知った。
恐らく「バスに乗り遅れるな」「鬼畜米英を叩け」と新聞と一緒になって連呼した事を後悔したことと思う。
このとき、日本国民はB29+爆弾+焼夷弾+原子爆弾、というUSAの超兵器群に、竹槍とバケツリレーで対峙していた。
そして、1945年3月10日。
この日、10万人の市民が亡くなった。
日本は降伏しなかった。
1945年4月1日、沖縄、嘉手納飛行場傍の海岸に、第一陣である16000人の米軍兵士が上陸した。凄まじい地上戦が開始された。
ひめゆり部隊の悲劇が起きたのは、6月18日。
守備隊の司令官が自決し実質的に地上戦が終結したのが6月23日。
それでも日本は降伏しない。
指揮官の一人、太田実少将は沖縄の人たちが最後まで軍部に協力した事、共に地上戦を戦った事を書き記すとともに、
「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」
と綴った電報を海軍次官宛に打ったと伝えられる。
沖縄の発展は、日本民族の約束であり誓いだ。
1945年8月6日午前8時15分、エノラゲイは1発の爆弾を投下した。
43秒後、高度580mでその爆弾は破裂。
8月9日午前11時2分、2発目の爆弾が投下される。
2発目まで3日間の熟慮期間があった・・・
一体、日本国首脳は、この間、何をしていたのであろうか。
USAに非人道的兵器を使ったことを即刻抗議した、との事であるが、終戦の準備はしていなかったのであろうか。
何故、遅まきながらも、3月10日の段階で降伏の判断を出来なかったのだろうか。
さらに言えば、6月23日の段階で白旗をあげられないのは、国のリーダー達が狂っていた、としか思えない。
頭のおかしな連中が国を引っ張っていたのか?
まさか、本気で1億玉砕を考えていたのだろうか?
私には理解出来ていない。
終わらせる事を考えずに戦争を始める人たち(軍人・政治家)が70年前にいた訳であるが、あれから日本という国はどう変化したのだろうか。
現在、為政者達の行動・決断の判断基準は確かだろうか?
「国が滅んで王だけ生き残るなんて滑稽だわ・・・」
宮崎駿さんの痛烈な皮肉が胸に突き刺さる。