恥辱の壁を越えて
当たり前の事であるが、”それまで”の間、そこに何も無かった訳ではない。”境目”、”境界”は存在した。
そこを超えるためには、検閲所に相当する機関を所定の書類(通行証)を提示して許可を得る必要があった筈だ。
しかし、それは突然消滅した。
1961年8月13日、午前0時、警察本部に設置された司令部から、待機していた警察官・民兵・兵士達に境界線を封鎖せよ、との命令が下された。
境界線付近にあった門(ブランデンブルグ)の下は、掘削機で穴が掘られ、そこにはトラックの荷台から運び出された、おぞましい数の有刺鉄線や石柱が次々と運び出されていった。
その周りは何十名もの武装した兵士達で固められており、例え境界線の向こう側に誰か見ている人がいたとしても、その行為を止める事は出来なかったと思われる。
後で分かった事であるが、彼らの構える機関銃の中に弾は入っていなかったそうだ。彼らには、それを買う金すら無かった。
0時3分には、境界線上に有刺鉄線が張られ始め、その1分後には作業中ではあっても、封鎖体制が完成されていた。
やがて夜が明けた。
人々は驚愕した。
一夜にして、そこには東西を分断する鉄条網が出来上がっていたのだ。
この一夜にして作られた境界線は、3日後には本格的な”壁”としての建設工事が始まる…。
1949年の”建国”以降、61年までに東ドイツから西ドイツに流出した国民の数は270万人を超えると言われている。
「ベルリンの壁」は、東ドイツの国力を維持するためには、どうしても必要なものであった。
しかし、それは国民の自由を奪うことはもとより、社会主義経済の行き詰まりを西側・自国民に知らしめるとともに、経済的敗北を象徴する「恥辱の壁」であった。
この壁は、一時的には東ドイツ経済を守る「盾」にはなった。しかし、この安定をもたらした壁は、やがて「国家を不安定にする壁」へと変貌する。
2年前、ベルリンに行った際に宿泊したのは、Gesundbrunnen(ゲスントブルネンと読む?)にあるホテルだった。
ここは、地下鉄(Sバーン)でフリードリッヒ通りから4つ目の駅であり、ブランデンブルグ門からは近い。
町並みの雰囲気から、つい、旧東ドイツ領と思っていたのであるが、実はそうではないようだ。国境線のギリギリ西側にあったようだ。
今、ベルリンに行っても”壁”は、ほとんど残っていない。
市内観光バスに乗って一回りしないと観光客は、その残骸を見つける事は出来ない。
”壁”が事実上崩壊したのが、1989年11月9日。その存在は28年にも及ぶ。
その日、東ドイツ閣僚評議会の広報担当、シャボウスキー政治局員は、テレビのライブ放送で次のような声明を読み上げた。
「現在の国民の大量出国の現状に対する政府処置について申し上げる。外国への個人旅行はその理由を問わず申請する事が出来る。人民警察の旅券・住民登録部は、正規の出国ビザを速やかに発行する。正規の出国は、東ドイツから西ドイツ、ないしは東西ベルリンの全ての国境通過点で行われる」
本当はビザの取得が義務付けられていたにもかかわらず、最初の2時間で400人が、つづく最初の週末には約50万人が西ベルリンに渡ったと伝えられる。
その日から、「境界線の消滅」の日から、25年が経過した…
私には認識出来なかったが、未だ東西格差、差別は存在するとのこと。
歴史の偉業は果たされたが、その爪痕は未だ残っているようだ。
しかし、この欧州のリーダーは、今後も力強くその歴史を刻んでいくものと思う。
国家としての「意志の強さ」を感じさせるのだ。