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オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

「武蔵沈没」の意義

 1944年6月19日早朝、空母9隻から250機を越す攻撃機が飛び立った。標的は、グアム島西方に位置すると思われるUSA空母群。

 相手側の勢力を日本側は正確に把握しているわけではなかったが、主力の大艦隊が集結していることは明らかであった。

 この戦いに負ければ、グアム・サイパン島を中心とするマリアナ諸島を奪われることとなる。

 前年2月、日本軍はガダルカナル島から撤収した。

 南太平洋地域はUSAの勢力圏となっていた。

 マリアナ諸島は、日本にとっての絶対防衛圏である。ここをとられることは、日本本土への侵攻を許すことに他ならない。

 負ける訳にはいかなかった。

 その後、第2波、3波、4波の攻撃隊を送り出したものの、その大半は戻ってこなかった。全攻撃隊324機のうち、母艦に帰還を果たしたのは100機程度。

 相手側に与えた損害は、ほぼゼロと言っていい。

 攻撃はこちら側から仕掛けたが、勝負にならなかった。「完敗」だった。

 その後、USAの大規模反撃により、空母「飛鷹」が撃沈された。また、潜水艦による雷撃で大型攻撃空母翔鶴」、重装甲空母大鳳」が相次いで沈んだ。

 マリアナ諸島の覇権をかけた機動部隊の決戦は、日本軍の大敗北に終わった。

 この大海戦の後、日本側の攻撃空母は、もはや「瑞鶴」しか残っていなかった。正確には、小型改造空母がいくつか残存していたが、80機相当の艦載機を有し30ktを越す高速でロングレンジ攻撃を可能とする空母瑞鶴」1隻のみとなった。

 もっと、深刻な事実があった。

 瑞鶴」が健在であっても、それに搭載する攻撃機、何にも増して攻撃兵器を操れる搭乗員がいなかった。

 日本海軍の空母機動部隊は、事実上、マリアナ諸島で壊滅したのであった。

 

 それから、4ヵ月程度たった1944年10月17日、フィリピン・スルアン島にUSA軍は上陸を開始した。20日にはレイテ島に戦艦・巡洋艦など157隻からなる大艦隊が集結し、猛烈な艦砲射撃を開始した。

  USA軍は、猛烈な暴風雨をものともせず、10万人の上陸隊がレイテ島のタクロバン、ドウラグを次々に制圧したという。

 まさに電撃的な作戦遂行により、フィリピン諸島はUSAの支配下に入った。

 司令官マッカーサーは過去、この地を撤退する際に歴史的なセリフを発している。

 「I  shall return」

 彼は、自分自身に対する誓約を守った。

 事態に対する日本軍の反撃は機敏であったと言える。

 22日には戦艦「大和」「武蔵」を中心とする大艦隊がレイテ島の上陸勢力に打撃を与えるべく、ボルネオ島ブルネイを出向している。恐らく、USAのフィリピン反攻を予測しての作戦行動であったと思われる。

 艦隊は途中で二手に分かれ、一つはスリガオ海峡から、もう一方はシブヤン海からレイテ島に停泊する敵輸送船隊を目指した。

 この時、フィリピン海域に存在した敵側勢力の総量は、恐らく空母16隻、戦艦6隻、巡洋艦9隻、駆逐艦44隻。潜水艦は無数。

 日本側の空母部隊は、エンガノ岬沖にいた。攻撃空母の生き残り「瑞鶴」と小型改造空母3隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦6隻からなる「最後の機動部隊」(小沢艦隊)だ。

 因に高速移動をできる空母瑞鶴」だけであったので、正確には”機動部隊”とは言えない。しかし、これが日本海軍最後の空母艦隊であったことだけは間違いない。

 マリアナ海戦の残存航空兵力100機は、この中にいた。

 しかし、何という戦隊名で呼ばれたかは不明であるが、この航空部隊がUSA機動部隊に空襲をかけることはなかった。

 この艦隊は「囮」だった。

 シブヤン海からレイテ島に突っ込もうとしている栗田艦隊を支援するための陽動部隊だった。USA側司令官ハルゼーはこれに見事に引っかかり瑞鶴」艦隊に殺到した。そして、艦隊の全ては失われた。

 瑞鶴」艦隊の目的は達せられた。

 この陽動作戦は、その効果をもって作戦史の傑作として評価されている。

 

 栗田艦隊には、もう一つの囮があった。

 狭いシブヤン海を艦隊が通過する際、USAが空襲をかけてくることは必然・必至であった。

 飛行機 VS 船。

 この戦闘の結末は、当時、既知のものとなっていた。船の10倍の速度で飛行する攻撃兵器に艦隊は対抗すべき手段を持っていなかった。

 せいぜい、25kt程度でしか進撃(航行)出来ない艦隊が、レイテ島に到達するためには、生贄が必要であった。USA攻撃隊の目を引く獲物が必要であった。

 それを担ったのが戦艦「武蔵」である。

 「武蔵」は、その役割を果たすために、船体を白いペンキで塗られていたとの言説がある。わざわざ、艦隊の中で目立つようにペイントされていた、と言うのだ。

 また、USA側の魚雷攻撃に対し回避行動をとらない、との作戦方針を艦長が明言していたとも聞く。

 かくして、「武蔵」は、1944年10月24日午後7時35分、シブヤン海に没した。

 囮の役割を十分に果たして…

 「武蔵」は、少なくとも魚雷20本、爆弾17発を被弾したとのことである。

 海戦史上、単体で被った被害数でこのような数を他に見ることは無い。

 「武蔵」が如何に凄まじい攻撃を受け続けたのかが想起されるとともに、囮としてそれを享受せざるを得なかった彼の苦悩が想像される、…想いは巡る。

 しかし、結果として、「武蔵」の自己犠牲は報われなかった。

 栗田艦隊が、レイテ島を間近にして反転し攻撃目標をUSA空母機動部隊に変えたからだ。

 栗田提督は、最後の最後に攻撃目標を輸送船団から機動部隊に変更した。そして、フィリピンの覇権は二度と日本に戻って来ることはなかった。

 「武蔵」瑞鶴」艦隊をはじめとする多大な犠牲を払った上での栗田艦隊の反転の理由は謎だ。未だ判明していない。

 歴史の神様は、時にいたずらをするらしい。

 小沢艦隊(瑞鶴を中心とする艦隊)の陽動成功を栗田艦隊に伝えたはずの「届かなかった電文」とともに、この「反転」理由は、現代史の謎だ…。

 囮達の犠牲は報われなかった。

 

 この度の「武蔵」の発見に感慨はある。

 しかし、彼らの自己犠牲が示した意義は、その後の戦況が辿った経緯を考えるとかなり微妙であり、70年を経た発見を無邪気にばかりなってはいられない。

 「神風特別攻撃隊」が組織されたのも、この海戦が機であった。

 戦争における自己犠牲に、どれほどの意義があるのだろうか…