オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

さよならASCII

 西和彦氏の現在の肩書きは、「須磨学園学園長」なのだそうだ。

 他にも、大学教授、会社社長の名刺も持つようであるが、現在のプライマリは「校長先生」。

 須磨学園は、最近、高校駅伝に頻繁に顔をだすようになったので、こちらの面でご存知の方も多いと思う。

 この高校、地元の有名進学校なのだそうだ。

 私は、6〜7年前、西氏の講演会に行った際、この高校名を初めて知った。親兄弟から頼まれて学校経営に首を突っ込んでいるというようなことを仰っていた。

 この講演会の中で、西氏はカリキュラムの中に ”プロジェクトマネジメント” を取り込んでいることを示唆していらした。

 講演会では、”プロジェクトマネジメント” という言葉は使わなかった。

 しかし、ITリテラシー教育の一環として、生徒全員にノートPCを自宅に置くこと、主要な連絡はメールで行い、それを父兄と情報連携すること等を、この時期に当たり前のものとしていた。

 これらの学園の学習方針の説明の中で、夏休みの自習計画を各人に立案させ、進捗管理をソフトウェアで行わせている、らしきことに言及されたのだ。

 今さらながら、先見の明に驚かされた。

 学習方針の説明の中で「駅伝」の話もあった。

 彼はさりげなく言った。

 「頭の良い子は何でもできるんですよ…」

 

 彼が「アスキー」という名の会社を立ち上げたのは70年代後半。早稲田大学在学中であったと聞く。

 その頃、日本にまだPC-8001は無かった。しかし、NECの社内には公然と出入りする存在になっていたらしい。

 PC-8001のキーボードの右側に、贅沢にも独立したテン・キーが装備されたのは、彼の開発陣に対する強い進言があったからと伝えられている。

 また、彼は当時、設立して間もないマイクロソフト社のビルゲイツ氏とコネクションを形成することにより、同社ソフトをPC-8001/PC-9801シリーズの標準ソフトとして採用させ、その後のマイクロソフトBASICの日本市場への(爆発的)普及に大きな役割を果たす。

 彼の日本のパソコン黎明期における貢献は、極めて大きく、計り知れない。

 彼は、PCをコモディティ化するために、MSXという規格を提唱し、各社各様であったPCアーキティクチャを統一することに成功した。

 この頃から、彼はPCが子供の学習教材に利用出来ると確信していたようだ。

 その後、彼は事業の失敗もあり、アスキーを離れる。Windows3.1が日本市場で増殖し続ける頃、彼の名前を表舞台で聞く機会はあまり無かったように思う。

 

 2015年5月で、「週間アスキー」が休刊する。

 当たり前であるが、今の雑誌制作に西氏が関与している訳では無い。

 しかし、当時、マイコン/パソコンを研究・趣味の対象としていたエンジニア達にとって、雑誌「アスキー」(当時は月刊)が与えてくれた技術情報は大変価値のあるものだった。

 「I/O」「RAM」をはじめとする他雑誌がどちらかというとゲーム・ホビー中心の編集を行っている中で、アスキーはあくまでもコンピュータの利用技術、生活への関わりにフォーカスしていたように思う。

 この頃の私は、アセンブラコンパイラの内部構造が知りたくて色々な本を読みあさっていたのだが、アスキーのとある記事を見て、大きな技術的示唆を受けた。

 その後、その成果として4KBサイズのTK-80用アセンブラを制作した。

 これは、私が初めて作ったプログラムとなった。

 私がITに関係のある仕事に携わるようになったきっかけの一つは、アスキーが与えている。

 

 マイクロコンピューターは1970年代に発明された新しい技術であるが、この超高集積・精密回路が持つエンジニアリング的な意味は、既に大きく変化してしまっている。

 マイクロコンピューターは、汎用コンピューターをパーソナライズするための集積技術というより、現在では、MPU、プロセッサという「一素子」であり、コモディティ化された事務機器の構成部品である。

 もはや、一般の人達にとっては、この超集積回路の中身は大きな問題でなく、これを使った新製品が私達の生活をどう変えていくかが興味の対象だ。

 おそらく、そのことはステーブ・ジョブズだけではなく、西氏も遥か以前から透視・洞察していたのではないだろうか。

 「週間アスキー」のエピローグに若干の感慨を覚えるのは私だけではあるまい。

 さよなら、ASCII

 感謝を込めて…

 

 

 

 

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