茹で蛙の死
NHKの開票速報を最後まで見ていたが、驚くべき接戦だった。このようなことが起きるのだ…。
橋本市長も仰っていたが、大阪市民の責任感溢れる政治行動はこの国の歴史に残るものと思う。
恐らく、このようなテーマでの大規模な住民投票は当分、いや2度とは起きないかも知れない。壮大な政治ドラマであったと思う。
橋本市長の今後の動向が取りざたされているが、私は本当に引退するのではないかと思う。「2万%」の前歴を言う人も多いが、「出馬しない」を「出馬する」に変更するのと、「引退する」を「政治家にしがみつく」というのでは男の美学が異なる。
後者はみっともないこと甚だしい。前者は「茨の道をいく」という選択との見方もある。
「きっと辞めない」と言っている人は、単に彼の人柄を否定しているのだと思う。
引退すると思う理由はもう一つある。
「僅差の敗北」であったことだ。
敗北の理由に大阪の南北格差やシルバーデモクラシーを唱える人もいるが、私は全ての地域でほぼ半数に及ぶ明確な反対票が存在した事が問題だと思う。沖縄での辺野古への基地移設に絡む選挙の時と同じ所感だ。
橋本市長にとっても、例え勝っていたとしても、それに匹敵する反対派が存在する事は、施策遂行の上で心苦しいと思う。
改革は簡単には成し遂げられないが、それにしても薄氷の勝利の上に輝かしい未来の夢を想像出来るほど、彼が楽観主義者であるかは分からない。
60万人にも達する「NO」は、彼にとって十分に「政策的撤退」、そして「引退」の理由になったのではないだろうか。
なんとなく、私にはそう見える。
「大阪を再生させる」
彼は、このことだけを考えて7年間、死にものぐるいで、夜を徹して働き続けてきたのだろう。約半数にしか理解されなかった自らの政策の頓挫は、十分に「引退勧告」になったと思う。
その覚悟であったからこそ退路を断って、住民投票に望んだのだと思う。
「彼はきっと辞めない」「負けたから引退は無責任だ」「やり方は強引だし辞めるのも勝手過ぎる」。
このような批判を考える人は、彼の真反対の価値観の人なのだと想像する。
そのような人達は「責任を一身に背負って自らの信じる改革を押し進めるリーダー」にはなれない、ならないし、彼の考えを理解しようとはしないと思う。
彼は平成において、不世出のリーダーだった。
会見では、この7年間の家族の苦労に言及することがあったが、これを聞いて「まだやれ」と言う人は無神経に過ぎるのではないか。
相応の実績をあげた人が「自分の人生を生きたい」と言っていることに口を挟むべきではない。
ましてや、滅私奉公をしたことが無い者が、とやかく言うものではない。「公」のために人生の一部分を裂いた事の無い輩は、身の程を知るべきだ。
さて、勝った自民党側は「改革」ではなく、現状維持からの「カイゼン」を託される。
どのようにして大阪再生を実現するのか、責任重大だ。
イノベーターの方針に対案を示さず、「今の方が安全」と主張して勝利したのだ。証拠を見せる義務・責任は当然あるだろう。
自民党の「敬老パス」を人質に取る作戦はさすが、だ。
これを理由に、あと10年もすれば棺桶に入るであろう人達の多くが、本当に反対票を入れたのだとすれば、これも上等。
彼らは、大阪の未来ではなく刹那を選択したということになる。
リスクを含む改革よりも、電車賃を取った訳だ。「茹で蛙」をみることになるかもしれない。
改革の芽を摘み取り、ゆっくりとした死を大阪市が目指すのであれば、それはそれでやむを得ない、と多くの傍観者は考えるであろう。
私は、就職を機に大阪を出た。当時の大阪には、これといったIT企業が無かったからだ。本当は地元に就職したかった。しかし、大阪でIT企業は選択出来なかった。
そして、今度は、将来不安を理由に、東京圏に転出する若者が極端に増加したら、市制担当者・政治家達はいったいどうするのだろうか。
「大阪は危ないから東京に行こう」と若者が考えたらどうやってそれを止めるのだ。企業選択の自由は、未だ東京の方が大きい事は間違いない。未来を見る若者は、大阪を捨てるかも知れない…
財政破綻した夕張市からは、その後、多くの市民が流出したそうだ。このパターンは、地方自治にとっては死のスパイラルだ。
今回の結果が、無能な政治家に託した「現状維持」なのであれば、「勝利」は茹で蛙の死を意味することになるかもしれない…