選択肢を奪われた国民の悲劇
「お灸を据える」という言葉をご存知か。
遥か古、昭和の頃、悪さをした子供を嗜めるため、いや罰を与えるため、当時の大人達が好んだ所行だ。
嫌がる子供を押さえつけ、無理矢理、手や足に灸を行う。
熱いので、当然子供は泣き叫ぶ。
「もう、悪いことはいたしません」と子供達は泣きながら謝罪の言葉を発した。
今ではこれを「幼児虐待」という。
「しつけ」と体罰の境目がつけられない現代では使えない戒めの手法だ。
私がまだ青年(選挙権を持っていなかった)の頃聞いた「お灸」にまつわるその言葉は、政治というものへの個人的嫌悪感を増幅させた。
「今回は野党に投票した。自民党にお灸を据えた」
TVインタビューにそう答えた老人がいた。
何者なのか、どこの田舎者か分からない老人であったが、今考えると彼は世論を巧みに表現する言葉の天才だった。
彼は「天罰」とは言わなかった。「お灸」と言ったのだ。
つまり、自民党が悔い改めた姿勢を見せれば、次回はまた自民党に投票すると、大敗した与党に対して、今後進めるべき政策の方向性と国民支持の関係について説いてみせたのだ。
当時の自民党が、ある意味、国民から如何に信頼され、根強い支持を集めていたかが想起出来るエピソードだ。
そして、その頃の自民党は「悔い改める」矜持というものを有していた。そして彼らは悟り、後輩達に申し伝えた。
「選挙は怖い…」と。
国民を無視した政策を行えば、必ずしっぺ返しを受ける。例え、それが政権交代に繋がらなくても、各自は議員として「国民による粛正」を覚悟しなくてはならなかった。
一方、国民は政権交代など考えもしなかった。
自民党の代議士個人に鉄槌を加えれば、それで良かった。
何故なら、
それは、自治労、日教組、全電通、国労による組合民主主義、革新イデオロギーの導入、日米安保の廃止、日の丸:天皇制の否定を意味したからだ。
国民にそんな選択肢はあり得なかった。
当時の選挙制度は中選挙区制。
多少、野党に票を入れても政権交代など起こり得なかった。その選挙区で地盤の弱い候補者が落選しただけだ。自民党への警告はそれで十分だった。
派閥の領袖の寵愛を受けた議員は知名度・貢献度ともに高く、安定感は抜群だった。
そして、そのような選挙による洗礼、フィルタリングをかいくぐった猛者達は、いずれ国務大臣に抜擢されて行った。
当時の自民党は派閥政治。
派閥は良い意味での党内抗争を誘発していた。
自民党内には、思想的に明確な右派と左派があった。「リベラル」などという訳の分からないフワッとした政治思想・和製英語が存在しない頃だ。
この頃、集団的自衛権行使は口にすること自体が「タブー」だった。何よりも立憲主義に基づく政治運営が与党・政党運営の根幹であり正道である時代だった。
これ以外の思想は「革命」だ。政治システムの転覆を意味する。
その点で、日本社会党と日本共産党は看板は違えど思想的には同床異夢であった。
因に現在「日の丸」を見たら目眩がするという教職員は、当時の組合や政党による洗脳教育を引き継いでいる人達だ。21世紀に至っても、組織ぐるみのマインドコントロールを継続しているのであるからたまげる。
この人達は、日の丸と君が代を否定すれば戦争の無い平和な時代が訪れると本気で信じている。ここまでくれば、もう宗教だ。
もし、この頃の自民党総裁=総理大臣が、USAに媚を売るために集団的自衛権行使を「解釈改憲」で行う、と言ったらどうなっていたであろうか。
間違いなく党内抗争が起きる。
このような国策を左右するようなケースにおいて、かつての自民党は派閥が政局を引き起こすことによって党内バランスをとっていた。つまり、危険思想を持つタカ派の総裁は引きずり下ろして、穏健派の代表にすげ替えてしまうのだ。
政権交代は起きなくとも、どの派閥が政権を担うかについては、常に柔軟な変化・変更を遂げてきたのが自民党である。
安定感抜群。
議員達は、危険極まりない思想をもった代表と間違っても心中したりはしない。
各個人の思想は、属する派閥内で尊重され堅持されるのだ。決して信念を曲げる必要は無い。
「憲法違反である」と個人が考えれば、派閥は同じ思想・信念を持った者同士の集まりであるから、それを曲げて総裁の政策を支持することはない。
気にくわなければ自分たちの親分(領袖)を総裁に担ぎだせば良いのだ。
自民党の派閥は、同じ理念を持つ者同士の政策の方向性を定めるとともに、次代を担う政治家を育てる機能を持ち合わせていた。金と権力を貪るが誤った方向には向かない性向を持ち合わせていたのだ。
このシステムは、小泉純一郎総裁の時代に完全に破壊された。
彼は組閣にあたって、派閥からの推薦名簿をいっさい受け取らなかった。
党の権限は3役に集中させた。
これにより、総理と官邸の権力は著しく増大した。
良い意味でも悪い意味でも、総理・総裁のリーダーシップが発揮出来るようになったのだ。
・・・・・・・
今の自民党内にも、「解釈改憲」に反対の議員はある程度いるはずだ。
しかし、党内から反対の声は挙らない。
その理由は、党幹事長が各代議士の次期総選挙における「公認」と「選挙資金」を人質に取っているからだ。
彼らは「聖職」「天職」として政治家をやっているのではないので、選挙での落選だけは絶対にしたくない。生活に困るから…。
だから「憲法違反」と明白であっても、党の方針に反対したりはしない。
国民が幾ら反対していても。
自らの生活のために「理念」「信条」「真理」を党に売るのだ。
もはや彼らに、矜持などというものは存在しない。
目先の「金」と「地位」が大事なのだ。
ABEは、このシステムを最大限に活用し、自ら持つ権限を行使し、やりたい放題をやっている。
このような独善的手法に国民としては忸怩たる想いを重ねるばかりであるが、絶対安定多数をもつ巨大与党は止められない。
このような事態にあたり、評論家の中には「自民党を選んだ国民が悪い」という者もいる。
しかし、待ってほしい。
私達国民には「選択肢」が無いのだ。
自民党に絶対多数を持たせたくなければ野党に投票するしかない。
しかし、民主党なんてご免だ。死んでも入れたくない。皆、そう思っていた。
結局、私達の消極的支持が、あの「バケモノ」を生み出してしまった、ということだ。
自民党総裁は党内の代表戦で選ばれている。
自民党員は彼を選んだ。
自民党員は、彼が、ABEが危険思想を持っていることに気が付いていたのだろうか。
国民は、まさか自民党が「憲法違反」に進むとは、夢にも思っていなかった。
私は、彼が復活すること自体が想像できなかった。
それに、総理大臣選出が私達から見て間接選挙である限り、「責任をとれ」と言われても困る。どうしようもない。
このような事態になるリスクを考えていては、私達は総選挙など出来なくなる。
国会議員の中に、デーモンが混じっていることを前提に、国政選挙などできるものか。
私達は、もう、右にも左にも行けなくなった。
「選択肢」が無いのだ。
こんな悲劇が来るとは思っても見なかった。
今日、憲政史上類を見ない暴挙・愚行が衆議院本会議で行われる…