オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

市民革命の歴史

 戦う者の歌が聞こえるか

 鼓動があのドラムと響き合えば

 新たに熱い生命がはじまる

 明日が来たとき そうさ明日が

 列に入れよ 我らの味方に

 砦の向こうに明日がある

 戦え それが自由への道

 ・・・

 悔いはしないな たとえ倒れても

 流す血潮が潤す祖国を

 屍超えて開け明日のフランス

 

 ミュージカル「レ・ミゼラブル」で合唱される名曲「The People's Song」(民衆の歌)の一節。世界的な大ヒット作を代表する感動的な楽曲である。

 「屍超えて開け、明日のフランス」という歌詞が大変印象的で記憶に残る。

 当初、この歌を聴いたとき、アンジョルラスやマリウス達がバリケードの中で一体誰と戦っているのか、私には分からなかった。その知識は無かった。恥ずかしながら。

 少なくともフランス革命が舞台でないことは分かっていた。

 最近、この国の情けない政治状況、社会情勢を見ていて、この名作の時代背景を知ることが、我々、日本人にとって重要な意味があることに気がついた。

 この頃のフランス史を少しだけなぞってみたい。フランス国民が自由・市民権を勝ち得るまでの永い道のりの一端である…

 

 ビクトル・ユゴーが「レ・ミゼラブル」を発表したのは1862年。これはフランス史ではナポレオン3世による第2帝政期であり、物語の舞台はそれより少し以前、所謂ウィーン体制下の1815年からはじまる(ジャンバルジャンの出獄と司教との出会い)。

 1789年、バスティーユ牢獄の襲撃から始まったフランス革命は、議会による封建的特権の廃止と人権宣言の採択により一応の戦闘集結をみた。1791年には憲法が制定される。

 それまで憲法制定を求める議会を武力弾圧していたのはルイ16世、これに反旗を翻したのは「第3身分」と呼ばれた人々である。

 当時のフランスの「アンシャン・レジーム」と言われた社会は、第1〜3の身分制度から成っていた。

 トップのルイ国王の下が第1身分の聖職者、約10万人、人口の0.4%。次が第2身分貴族、約40万人、1.6%。最下層が第3身分いわゆる平民、約2450万人、98%である。第1、2身分は特権階級で官職独占、土地所有権・年金支給資格を有するが免税。第3身分は営業の自由がなく参政権なし、しかし納税義務があった。

 2%の特権階級が全ての権力を持ち社会を支配していた。

 パリの市民が蜂起した理由は凶作によるパンの値上がりにある。パンを求めてヴェルサイユ宮殿に行進する主婦達の列は数千人を超える規模であったという。

 「パンがなければケーキを食べれば良いじゃない」

 本当にマリー・アントワネットがそう言ったのかは知らない。

 しかし、現代日本ではジョークで使われるフレーズが、当時の特権階級の意識レベルと政治能力を強烈に揶揄している。

 もちろん、このことは単なる引き金・きっかけであり、パリ市民達はそれまでの永きに渡る圧政・暴政・無策に耐えかねたのだった。

  革命後の1792年9月20日国民公会が招集され王政廃止と共和制の樹立が宣言される。

 これにより、めでたく市民による革命は完結し、フランスは市民が議会を運営する立憲民主国家として変質を遂げた…のでは無かった。

 

 その後、議会は急進派により牛耳られおかしな方向へ突進していく。

 共和制の開始と王家の存続は別問題としていたはずが、ここに来てオーストリア王家との秘密書簡の存在(謀議?)をたてに、国民公会にてルイを裁くべしとの意見が明確に主張される。

 「ルイの処刑なくば共和制は幻だ」

 時間が経つに連れこの意見に議会は押され傾いていく。

 1793年1月21日、議員投票における結果は、361票対360票というものだった。1票差!

 ルイ16世は、ギロチンの露と消えた…

 妻のマリー・アントワネットも10月16日に処刑される。

 共和制は王家の廃止(処刑)により、めでたく正真正銘の純血民主政治体制に進化したかと言えばそうでもなかった。

 物価の上昇は止まらない。社会不安はかえって増大し続けた。その結果、議会は急進改革的な勢力により独裁方向に傾く。

 やがて「恐怖政治」が始まる。

 1794年6月10日、国民公会にて「革命の敵を根絶するために裁判を迅速化させる法案」(プレリアル法)が可決される。

 裁判における物的証拠は不要、犯罪刑は簡素化されギロチン(死刑)のみ。しかし、犯罪の範囲は恣意的に拡大された。この時に創設され、制度を維持・執行した組織が公安委員会、保安委員会、革命裁判所である。

 このトンデモ法の犠牲者・対象者は、宣誓拒否聖職者、外国(恐らくオーストリアプロシア)との密謀・共謀者、穀物の買占め業者、反乱参加者等であったらしい。

 ギロチン直行は約17000人、監獄行きは約50万人であった(凄…)。

 現代のフランス国民が国家・制度をあまり頼りにしないことがよく理解できる黒歴史である。

 またこの時期は、イギリスがロシア・プロイセンオーストリアと同盟を結びフランスに宣戦を行なっており、フランス革命には王政国家の露骨な干渉が行なわれていた。

 この混乱期に颯爽と現れた軍事家・政治家がナポレオンである。

 

 ナポレオンは政府を武力打倒し統領政府を樹立、ナポレオン法典を公布し皇帝の地位に就く(1804年)。ここにフランス革命は完全終結し「帝政」が始まる。

 これは王政復古ではないと歴史上解釈されている。

 人権宣言に謳われた法の下の平等や個人の思想や信仰の自由が法典に継承されていたからだ。ただ、ベートーベンはこれを共和制の否定と捉え、皇帝への「シンフォニー3番」の献呈を取り下げている。この辺り、フランス史は複雑だ。

 その後のナポレオンの活躍は有名。

 彼がセントヘレナ島に流れたのは1815年10月。従者は将軍・医者・秘書など15名であったという。

 

 さて、邪魔者ナポレオンがいなくなって欧州王達は新たな社会秩序を模索する。もちろん、それは市民革命などではなく王政による国家運営である。

 ウィーン会議は、1814年9月18日開催された。そして王族・貴族達は来る日も来る日も舞踏した。次の年の6月9日まで。

 恥ずかしい内容で批判にさらされるこの会議であったが、考えてみれば欧州連合の素地は既にこの頃出来上がっていた訳であり、最初から王立連合国家を目指していれば世界大戦は避けることが出来ていたのかも知れない。

 しかし、歴史に if はない。

 ウィーン議定書の内容は、各国の領土線引きが種々なされているが、フランスにおいては、

①1792年当時の領土に戻す(ナポレオンの占領地を返還)、②旧王家の復活

が主なもの。

 これは革命の否定、後戻りである。

 時計の針は30年戻され、フランスで王政復古が実施された。

 欧州諸国は、市民革命を警戒・抑制するため神聖同盟、四国同盟(後にフランスも参加し五国同盟)を締結する。これは、どこかの国で市民革命が勃発すれば各国が軍事介入しそれを抑えるという意味合いがあった。

 立憲民主主義への道は遠い。

 

 ルイ18世の即位により名門ブルボン王朝は復活した。しかし、王政は長くは続かない。

 その後、王となったシャルル10世は貴族・教会偏向の旧態政治を進め、それに反発する議会を解散した。しかし総選挙に敗北すると選挙法改悪、事前検閲復活など、言論・出版統制の勅令を出した。

 この暴挙にパリ市民は爆発、工場の閉鎖、労働者・学生による街頭デモを行った。これに対し軍隊が発砲、双方が交戦し流血の事態になる。

 市民は街灯を破壊し夜の暗闇の中、軍隊への襲撃を繰り返した。

(この辺りの状況は「レ・ミゼラブル」公演を連想させる)

 大規模な市街戦に発展したが、1830年7月29日、市民はパリを完全掌握しブルボン王朝は崩壊した。

 この戦闘は「栄光の3日間」と言われ、欧州各国に自由主義運動として飛び火し、ウィーン体制を弱体化させる。

 歴史はこれを「7月革命」と呼ぶ。絵画「民衆を率いる自由の女神」はこの革命を描いたものとのこと。

 しかし、これで王政が終わった訳ではない。ルイ=フィリップ公の即位により王政は継続された。

 

 フィリップ王は、神聖同盟を脱退しウィーン体制からの脱却を示したが、政策が露骨な銀行家・大資本家優遇のものであったため、労働者の支持を受けることはできなかったらしい。政治・社会は未だブルジョア階級に実質的に支配されていたのだ。

 そして、お決まりの愚行、言論・出版の自由侵害、普通選挙を求める市民の声の圧殺、そのための政治集会の弾圧等、フィリップは過去の為政者達と同じ過ちを繰り返した。

 やがて、1848年欧州に未曾有の事態が訪れる。

 悪政にブチ切れたパリ市民のデモはやがて騒乱に発展、フィリップ王を退位に追い込み革命となる。この革命は「2月革命」と呼ばれる。

 この革命は、欧州における民衆のそれまでの社会システム(王政)への不満を爆発させる起爆剤となり、ムーブメントはオーストリアプロイセンハンガリーへと波及した。

 やっぱり王政ではダメだ。社会主義こそが我々を救う道だと欧州の人々は考えたのだろうか。マルクス共産党宣言を出したのはこの年の2月である。

 

 フランスは、2月革命により共和制に再び戻る。ようやく自由選挙も実施される運びとなった。しかし、これで現代のフランス政治体制が出来上がった訳ではない。

 この後も、ナポレオン3世による第2帝政(1832〜1870)→第3共和制(1875〜)を経て世界大戦を迎えている。それまでは長らく社会主義政権であったようだ。

 

 話を「レ・ミゼラブル」に戻すとアンジョルラスやマリウス達によるバリケードでの戦いは1832年の政変以降の話のようだ。7月革命から2月革命の間とういう事だろうか。

 彼らは、「自由」を求めて王政と戦っていたのだった。

 

 『悔いはしないな たとえ倒れても 流す血潮が潤す祖国を 屍超えて開け明日のフランス…』

 

 何という市民革命の永い歴史であろうか。

 何という民衆の力、自由への行動力。

 自分たちの権利を勝ち取るために、社会変革の原動力を全て国民の血で贖ってきたとも受け止められる。

 

  彼等が求めたものは、議会による国政、そのための普通選挙の実施、それを維持するための言論自由だ。

 そこは極めて一貫している。

 

 彼らの歴史の前では、我々日本人は幼稚だ。

 

 デモをやらない。

 ストもやらない(何とやったら民衆が文句を言う)。

 休みを取らずに働き続ける。搾取されっぱなし。

 嫌なら憲法に保証されているように自由に職業を選べばいいのに辞められないと言う。

 挙句、命を落とす労働者がいる。

 言論の自由に当事者(マスコミ)が興味ない。サロンを作って政府広報をやっている。

 

 国民も新聞もお上が間違っても文句は言わない(いや、金(株価)のために何でも支持している)。

 一例…

 ・立憲主義を政府最高責任者(首相)が知らない(無知が罪ではない)。

 ・立法府の一員である衆議院議員憲法を守らない。

 ・議会を勝手に自分の都合(論理的理由なし)で解散する。

 ・国会で嘘をつく(やってません、会ってません、辞めます、丁寧にします、寄り添います、以下キリがない)

 ・国民との約束を守らない(新たな判断と詭弁を垂れる)

 

 そして、国民の半数は選挙に参加しない。

 世論調査結果の1/3は「わからない」だ。

 今の我々は、社会を変えるための努力を全くできていない。

 

 改めて考えてみる。

 私たちは、政治に無関心である事がクールと捉え、法治国家だから権利は保証されると盲信することを「未熟な思考」として、認識する必要があるのではないか。

 

 欧州の歴史を踏まえた上で、この国の政治・社会情勢を正常に判断できているのだろうか?

 

 

 

 今、フランスの彼の地では市民によるデモが激しく行われている。

 燃料増税への反発が直接原因と言われているが、マクロン大統領は

「(軽油やガソリンを買うお金がなければ)電気自動車を買えばいい」

旨のことを言ったそうだ。

 

 マクロン氏は、自国の革命で散ったハプスブルグ家出身の王妃の最後を学校で習わなかったらしい。

 

 彼も我々も、民衆を冷笑している場合ではないのだよ。