オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

私はタイタニックのライフボートに乗った ー3.11の記憶ー

 私は、横浜そごうの地下2階にいた。

 ホワイトデーのプレゼントを買う為だ。今日は先日受診した健康診断についての医師面談に行かなくてはならないのだが、少し時間があったので、横浜で途中下車したのだ。

 まずは、霧笛楼の生チョコ(毎年買っている)を購入、その後、色んなTipsのようなチョコレートが入った箱ものセットを1つ買った。あと、なにか変わりもののチョコかクッキーがないか探していた。

 店員の女性とチョコレートの成分(材料)の話をしている時だった。

 16時に医師面談をセットしていたので、さきほどから時計は意識していた。だから何時頃だったか覚えている。

 14時45分を少し過ぎた頃だった。

 足下がグラッ、と揺れた。どこかから「キャッ」という女性の声がした。いつもより、大きい地震だ。何かが床に落ちた音がした。

 

店員女性「お客様、地震です!」

私「うん。いつもより大きい。相当揺れてる」

店員女性「外に出た方がいいでしょうか」

私「いや、ここは地下だし地上にいるよりはいいと思う。大丈夫、この建物だったら簡単には壊れたりしない。揺れが納まってから避難しよう」

店員女性「そうですね」

 

 私と彼女が話している間に、何十人かの人達は出口に殺到していた。悲鳴をあげている人もいる。

 ここから地下出口(そごうの地下入口)までは近い。10m少し位だ。百貨店入口は、地上まで吹き抜けになっていて、地上にはすぐ出られる。いま、焦って避難する必要はない。大丈夫、納まってきた。

 揺れが納まると彼女に言った。

「ホワイトデーどころじゃないね。やめとくよ。行かなきゃ」

「また、おいで下さい」

 彼女の作り笑いは引きつっていた。

 

 表に出ると、時計台の前に人が集まっていた。

 皆、口々に何か言っている。時間は15時少し前だった。

 「この揺れだと、JRは止まっているだろうな。さて、どうやって病院まで行こうかな・・・」

 私は、お気楽なことを考えながら、横浜駅の東西連絡地下通路を西口に向かって歩いていた。やはり、先ほどの地震のせいで、あたりは騒然としていた。

 JRの運行モニターに人だかりができている。見てみると、運行状況ではなくニュース番組が写っていた。ビルの屋上から煙がでている。さっきの地震でどこかのビルが壊れたのか?

 しばらく、立ち止まってTVに見入っていると、地震速報が出た。

 「東北地方、震度7

 TVを取り巻く人達から、悲鳴のような、息を飲むような声が漏れた。

 辺りにいた人達は現実を認識した。

 私の感覚では、先ほどの揺れは震度3〜4程度だ。地下にいたので地上ではそれより揺れはさらに大きいはずだ、とは思った。しかし、。

 「震度7・・・」

 足下が溶けるような感覚がした。

 これは、大変なことが起きた。

 医師面談どころではない。家族は、大丈夫だろうか。仕事仲間達は平気だったろうか。皆、今どこにいるのだろう。私は少し(いや、相当)動揺していた、と思う。

 家に帰ろう。

 私だけではない。恐らく、同じ空間にいた多くの人達がそう考えた、と、今は思う。

 

 私は、西口に向かった。

 すでにJRが使い物にならないのは分かっていた。こういう時のJRはダメだ。有事の際の情報連携が絶望的に悪い。

 このような時に、JR駅員が適切な運行状況の予測を出せる訳がない。普段JRを利用しているものであれば、この様な時に彼らを信頼しない。私は楽天家ではない。以前の安芸地震の時もそうだった(私はあの時、広島駅にいた)。あの時は、酷い目にあった。そんなことを考えながら歩いていた。

 地下鉄は動いているかな。私は踵を返して、地下鉄に向かった。

 途中、相鉄も運行停止であることが分かった。「全部止まっている・・・」。

 不安が徐々に大きくなっていく。地下鉄の下り階段の手前で、グラッ、ときた。

 「余震か?」

 しかし、先ほど、そごう地下売場にいた時より、遥かに大きく揺れたように感じた。私はよろめいた。こんな揺れは初めてだ。

 地下鉄は止まっていた。駅員が、運転再開予定は立っていない、いつになるか見当もつかない、などと人に説明しているのが聞こえた。

 私は地上の状況を見る為に再び西口に向かった。

  

 西口の地上に出ると不思議な光景があった。駅前のロータリーに車やバスが一切いないのだ。人が一杯いるだけ。

 タクシーを止めよう。

 そう思ったのは私だけではなかった。

 「ダメだ。ここからは」「どうする、タクシーはよほど運でも持っていないと捕まらないな」

 暫く思案した。

 最悪、歩いて帰るか。ざっと、30Kmか・・・。2Kmを30分として8時間。ゲ〜、マジかよ。バスでもないかな。そうだ。東口から戸塚行きのバスがあったはずだ。

 私は、東口のYCATに向かった。YCATは人でゴッタ返していた。しかし、バスは動いていた。

 私は戸塚行きの待ち行列の後ろに並んだ。列は2列になっていて40人位が並んでいた。綺麗ではなかったが、皆整然と並んでいた。

 そうか、今、考えるとこれが日本人のミラクルだったんだ。

 しばらく待った。どのくらいだろうか。20分くらいだろか。バスが来た。しかし、これじゃあ、乗り切れないな、と半分諦めていた。しかし、幸運なことにこのバスには乗れた。200円払ったような気がする。

 

 一方、バスの中はぎゅうぎゅうだった。押しくらまんじゅう状態だ。しかし、文句を言っている人はだれもいなかった。皆、このバスに乗っている事の幸運を知っていたようだ。

 何故なら、YCATにはバスに乗り切れない数多く人が取り残されていたから。

 あと、根拠はないが、YCATには2度と戸塚行きのバスは来ない気がした。そして、結果としてそれは当たっていたと思う。

 このあと、このバスに乗っている私達乗客は長い時間を共有する事になった。それまでの人生を振り返り、将来を考えるには十分な時間であった。

 

 バスは東口を出たものの、道路は渋滞しており、全く進まなかった。道を歩く人も多く、その人達の歩くスピードの方が著しく早かった。

 10分間で100mやっと進むようなペースだった。

 それでも、亀のようにでもバスは進んでいた。車内はごった返していたが、皆、隣の人達と口々に地震の話をしていた。

 何故か、それを聞いていて気持ちが落ち着いてきたのを覚えている。赤の他人と体験を共有し、その感覚が同一であった事が気持ちを覚めさせたのであろうか。

 時には、笑い声も聞かれた。生きている、と皆実感したと思う。途中、何度かあちこちのケータイが一斉になる事があった。緊急地震速報を受信しているようだ。一瞬、車内が静寂になり、辺りに不安感が広がったりした。

 

 そうだ、家に連絡しなきゃ。家族は大丈夫か。メールを打った。間もなく返信がきた。どうやら、無事らしい。しかし、ここでケータイの電源が切れた。たまたまであるが、昨日充電するのを忘れていた。よりにもよって、こんな時に。私は自分がバカだとつくづく思った。

 

 このバスは、高島町から、みなとみらいに向かい、そこを通り過ぎると、桜木町を経由し伊勢佐木町阪東橋吉野町、蒔田、弘明寺と地下鉄の上のルートを通る。そして、平戸で1号線に合流し戸塚に至る。

 亀のように、じりじりとバスは進んだ。途中、伊勢佐木町だけでなく、多くの、殆どのバスをそのまま、停車せずに通過した。もう、これ以上、人がこの車に乗る事は誰が見ても無理だった。車中は人で充満していた。

 私はバスの中から、バス停に待つ人達の顔を見下ろしていた。

 皆、乗せてくれ!と言わんばかりの顔をしていた、と思う。

 何だか、申し訳なくて、バス停で待つ人達と目を合わせられなかった。自分だけが都合よく、家路に向かうバスに乗っているのだ。皆、家に帰りたいに違いない。

 このバスに乗れずに、皆どうやって家まで戻るのだろうか。そう考えると、いたたまれない。

 そう、このバスはタイタニックのライフボートだ。

 そう感じた。

 皆、乗りたいのに皆が乗る事が出来なかった救命艇だ。私はそんなものに今乗ってるんだ、と思った。

 

 バスは進む。

 弘明寺辺りの交差点でパタッと動かなくなった。何が起きているのか分からない。とにかく、先ほどから全く動いていない。辺りは日も暮れかかり薄暗くなっていた。

 ・・・!

 信号が消えている!

 辺りに灯りは全くと言っていいほど見当たらなかった。

 そうか、停電のため信号機が動作せず、交差点で車同士が牽制しあって動けないのだ。

 しばらくすると、バスは動き始めた。

 極めて遅いが、それでも徐々に無灯火の交差点に近づいている。交差点を曲がる事ができた。その時、交差点で、車を手招きで誘導している人がいた。確か、ポリスだったような気がする。

 いや、民間人だったのか。良く覚えていない。

 覚えているのは目頭が熱くなった事だ。

 誰か、人のお陰でこのバスは無事進む事ができている。そう、いつも世の中はこうして色んな人達のお陰で動いてきたのだ。そして、今日も同じだった。

 しばらく走ると、誰かが言った。「ほら、こっち側は電気がついているのに、こっち側は真っ暗だよ」。まわりは、もう真っ暗になっていた。この静寂は恐ろしかった。

 

 それから、何時間がたったのだろうか。

 平戸に近づくと、バスから降車する人がでてきた。

 ご夫人達(男もいたが)は、それまで、隣同士で話し合っていた人と、口々に別れの言葉を交わして降りていった。

 何故か、車内に和んだ雰囲気が流れた。

 やはり、女性はしなやかで強い。女性が不安を持ちながらも、静かな佇まいでそこにいるからこそ、男達は紳士でいられる。男ばかりでは、こう静かではいられない気がした。

 私達は、いつの間にか運命共同体になっていたのかもしれない。何とも言えない、仲間意識に近いものが出来ていた。お互いが席を交換したり、譲り合ったり、気分の優れない人をかばったり、声をかけたり、通路を開けたり、荷物を持ってあげたり、して。皆がお互いの家族の無事と自らの帰還を誓い合うような気分だった。

 

 戸塚区に入ると、バスはいつも通りのペース(いつも道は混んでいる)で走り始めた。戸塚ターミナルに着いたのは21時過ぎだった。5時間の道程だったことになる。

 ターミナルに到着すると歓声のようなものが聞かれた。

 バスの運転手が「到着しました。お疲れさまでした」というと、拍手が起きた。

 多くの乗客が降りる際、運転手に感謝の言葉をかけた。私も、「こんな状況下、ありがとう」と言った。

 

 長い、半日だった。しかし、ここからなら家まで10Km程度だ。歩いてでも帰れる。私は好運だ。

 戸塚の地下街を見て驚いた。人が何人か、ホームレスのように寝そべっている。こんな寒い中、どうしたんだ?

 見ると、JRの駅のシャッターが閉まっている。

「えっ」

 JRは、人を駅の外に閉め出していた。

 恐らく、帰る手段を失った人達が覚悟を決めて、地下街に座り込んだのだ。

 私は、絶望的な気分に戻った。

 

 後で聞いた話であるが、あの日、首都圏の多くの店舗・施設が場所を解放し、帰宅困難者を収容したとのことだ。私がいた場所で一番近く、大規模に帰宅困難者を収容していたのはパシフィコ横浜だったらしい。ひょっとしたら、バスから見えていたのかも知れない。

 それを考えると、JRのこの身勝手な行為は何なのだ。

 CSRもリスクマネジメントもあったものではない。

 公的施設として、自らの責任を完全放棄しているのだ。電車は動かないので、あとのことは知らない、という態度なのだ。

 私は、JRを絶対に許さない。彼らの如何なる弁明も聞くに値しない。あの日、多くの企業、団体、個人が、多くの帰宅困難者に手を差し伸べた。助け合った。もうそれだけでよい。

 万一の有事の際、不要なもの、捨てても良いものを聞かれた時に、私は迷わず「JR」という。当時の石原東京都知事の怒りは極めて真っ当だ。

 私は、金輪際、永遠にあの会社の社会的存在価値を認めない。彼らは私達をモノとしか見ていないし、その私達を乗せているあの鉄の箱は、単なる籠だ。

 いや、それ以下の乗り物であり、あの会社は私達を家畜程度にしか思っていない。

 JRの蛮行は、我家では将来にわたって語り継ぐ事にする。

 

 さて、戸塚のバスターミナルに降りると、たまたま、立場行きのバスが止まっている。急いで飛び乗った。最終バスであった。ここでも、私は偶然に恵まれた。

 夜の真っ暗な道を北にバスは走る。

 たまたま、隣に座ったご婦人と世間話をした。ご婦人は、横浜から私と同じバスに乗っていたそうだ。ラッキーだったと言っていた。

 その方は、地震があったときCIALでお好み焼きを食べていたそうだ。店内の客全てが一時避難したらしいが、地震が納まった後、店に戻り残っていたお好み焼を全て食べてから店を出たそうだ。あの時、よく最後まで食べられたものだと、笑っていらした。お互い怪我もなく済んで良かったと話した。

 

 立場に降りると、真っ暗な空一面に星が光っていた。そうか、今日は天気が良いんだ・・・。今日に限って。

 南の空に、オリオン座がくっきりと見えた。シリウスも美しく光っている。

 公衆電話があったので、ありったけの硬貨を握って受話器を取った。

 ケータイは電池切れで死亡していたので、これで家に連絡するしかない。

 電話口に出た彼女は、特に動揺するわけでもなく、いつもと変わらない話ぶりだった。そうか、こちらは大したことはなかったんだな。それなら、それで良い。何もすすんで恐怖体験をする必要はない。

 私は受話器を置いた。返却口から硬貨がドサッと戻ってきた。

 そうか、NTTは電話を無料で開放しているんだ・・・。

 

 何もなかったかのように、家に帰ろう。そして、できることなら、昨日までとおなじように、明日を迎えたい。

 たぶん、東北をはじめとして、あちこちで色んな不幸が起きているものと思う。それでも、明日は、それまでと同じように始まって欲しい。

 

 私は、ゆっくりと歩き始めた。

 家に帰ろう・・・

 帰る方向は分かっている。南にオリオン座が見えている。

 こっちが西だ。

 こっちが、私の帰る道だ。