前を見て歩くべきです
ケータイ電話は、便利だ。
話したい相手といつでも、どこでも会話できる。
駅に行くと、電車を待つ間、多くの人がケータイをいじっている。皆、電車に乗ってもケータイを見ている。そして、電車を降りたら、皆ケータイを見ながら歩いている。どうやら、家を出てから、ずーーっとケータイを見ているんだと想像する。
その人達、一体、いつまで見ているのだろうか。
寝るまで・・・?
たまに、隣に立っている人のケータイ画面をチラ見してみると(失礼、スミマセン)、ゲームをしている場合があり、意外だなと驚く。何だ、メールしたりどこかのWebサイトをみている訳でもないんだ・・・。
最近、JRが歩きながらのケータイいじりを注意するアナウンスを始めた。
当然だと思う。あれは危ない。
私も、何度もぶつかられたことがある。大変迷惑。
皆、四六時中、ケータイの何に捕われているのだろうか。
私のケータイは仕事専用なので余り鳴らない。メールも特定の所から来るのが殆ど。サプライズメールはほぼ無い。
彼女は「お友達がいないのね」と私に言うが、日常ひきりなしにメールをしてくる人が友達と定義されるなら、確かに友達はいない。わざわざ、何々という番組に、誰々が出ているというような情報をリアルタイムに提供してくれるような友人は私にはいない。
その彼女のケータイはしょっちゅうメール受信をしている。友達が多いんだ。
「いつも誰かと繋がっている」などという宣伝文句もあったような気がする。一見、素敵なキャッチコピーだが、果たしてそれが全てhappyなことなのだろうかと思う。
ケータイが普及する前は、恋人同士の会話手段はもっぱら固定電話か手紙だった。電話は、通常、家の中に1台しかないので、会話は同居人に筒抜けだ。長電話もできるものはない。恋人と逢う日、逢う場所を決めたら手早く切る。
「愛している」なんて伝えてる暇はない。
郷ひろみの歌に「逢えない時間が愛を育てる」というフレーズがあった。今、聞くと笑ってしまうね。今の恋人達には「あり得ない」シチュエーションだろう。
しかし、ケータイは相手を縛る、拘束する手段としても便利だ。
毎日、ひきりなしに一方的にメールを打ち続けることも可能。
「愛している」「私もよ」というようなやりとりを毎日、何年間にもわたって相手に強要することもできる。
そして、いずれ相手のことに興味がなくなり、好きでもなくなれば「別れましょう」ということになるが、その際は、「もうメールも連絡もしないでね」とわざわざ断る必要があるのだろう。
念のため「私の個人情報をケータイから削除して下さい」と相手にお願いしなくてはならないかもしれない。そうなると、これは一種の恋愛の儀式だね。
聞く所によるとメールはもらったら、即時に返信するのがマナーだとか。即、返信がないと打った相手が不安になるとか・・・
面倒だ。面倒くさい。そんなことで不安になるなら、最初から打たないでほしい。
面倒。
便利だけど面倒。
私は、しばしばケータイを携帯し忘れることがある。
関係者からは「ケータイを家に忘れた?あり得ない!」と叱責される。
そうかな?フツーに忘れるけど・・・。友達がいないから忘れるのかな・・・
私の「ケータイを不携帯」はさほど珍しいことではない。
そんなに不便は無いし。
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今日も皆は、ケータイを見ながら歩いている。
お願いだから前を見て歩いてほしい。
前向きに歩きましょう。