オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

「ストライキ」はグローバルスタンダード

 昨日(3/20)、相模鉄道(相鉄)がストライキを行った。結果として、始発から2時間程度の時限ストに終わった訳であるが、最近では珍しい私鉄労組の争議行為であった。

 「大層珍しい・・・」と当初は考えていたのだが、聞くところによると相鉄は5年前にもストを打っているとのこと。ふ〜ん、今時なかなか根性のある労組だ。

 Twitterには、多くの人から「迷惑」「考えられない」「ふざけんな」等の批判的つぶやきが寄せられている。

 確かに迷惑だと思う。

 それに、振替輸送も無かったとの事。列車の運行がストップしているため、迂回路を使った利用者は、(当然であるが)自腹で運賃を払うはめになった。

 スト解除後も、社内アナウンスでは「ご迷惑をおかけしました」の一言で終わりだったらしい。

 3年前の震災時には、夜遅くには運行を復旧させた相鉄も、さすがに労働組合ストライキには翻意を促せなかったようだ。

 

 ストライキは、ご存知のように労働者の権利であり、「違法行為」ではない。

 この争議行為は、国家公務員等一部の人を除いて、全ての労働者に与えられた正当なる権利だ。よって、労働者であれば鉄道マンであろうが、売店のおばさんであろうが、原発の作業員であろうが、ストライキを行える。

 それが、例えどのような社会的影響を与えようとも。

 ストによって大変な迷惑を被ったが故に、それを批判する人がいることも当然のことだ。しかしながら、他人の迷惑を考えていたら、労働者の権利などは行使できない。

 話のスジはその逆だ。

 大層な迷惑が広範囲に及ぶからこそ、争議行為は威力があり、「経営側に壊滅的打撃」を与える武器をもっているからこそ、労働組合は対等な労使交渉が行えるのだ。

 武器をもたずに強大な力を持つものに戦いを挑むのはアホのすることだ。

 よって、私たち庶民は、寛大な感情をもって労働組合ストライキを甘受すべきなのだ。

 本来は、間違っても労働者側を批判などしてはいけない。

 逆に労働組合を応援してあげなくてはならない。

 私たちの批判は、結果的に彼ら労働者から経営側に対抗できる唯一の武器を奪う事にもつながる。

 電車が止まっている時は、会社に電話をかけてこう言おう。

 「ストで電車が動かないので今日は休みます。予定の会議、商談類は全て今いる人達でお願いします」と。

 そんな無責任なことはできない!

 と、多くの人が考えると思う。

 そう、それが日本。

 日本の常識は、社会に迷惑をかける行為を非難する、自分達の都合だけで行動する事を身勝手と受け止めるように出来ている。

 今回の件は、「相鉄労働組合の身勝手な振る舞い」ということに落ち着く。

 「何でストライキなんて起こすの?他人へ迷惑かけることはやっちゃいかんでしょーが。いい年した大人が何やってんだよ。給料あげろ?そもそもその職に就きたいと思ったのは自分自身なんだしいちいちそんなことでストライキ何か起こすなよ」

 とあるTwitterユーザーのこの発言が日本人の感性をよく言い表している。

 正直、私も否定できない部分がある。

 

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 でもね、”社畜”なんていう、お下劣な言葉が日本に存在する理由は、上記のような考え方をするビジネスマンが多いからだよ。

 私たち、1人ひとりが正当な権利意識を持ち、確実な、あるいは断固たる行動をとらないから、権力を持った人間から都合良くこき使われたりするのだよ。これは、会社に限った事ではない。

 「ストライキ」をワガママと思っているようでは、国とか政府とか政治に軌道修正の力を与える事なんて出来ない。そもそも選挙だけで政治を変える事なんて不可能。

 投票される側の政治家が、もし全員アホだったら、例え誰に投票しようが結果的に政治が美しい設計図を持つ事なんてあり得ない。

 私たちは「間接的手段」でしか政治に参画できない。

 しかし、「ストライキ」を使えばアホな政治家と勘違いをしている官僚に一撃を喰らわす事はできる。

 例えば「ゼネスト」。

 何をバカな、と思うかも知れないが外国ではあることだ。

 反政府デモよりも、よっぽど安全で合法。

 警察等、公権力も介入のしようがない。だって、実力行使をしている張本人達は「武器」を持つ訳でもなく、デモをやる訳でもなく、ただ家で寝ているだけだ。

 沈黙による実力行使、サボタージュを行っているだけだ。

 結果として社会に迷惑をかけているかもしれないが、何か「行為」が伴った訳ではない。

 公権力は「介入」すべき相手を持たない、特定できない。

 ただ、「皆さん、持ち場に戻って下さい」「勤労に励んで下さい」と懇願するしか手段はない。

 実際、戦後間もない日本においては、このような行動(争議行為)は当たり前であり、よく利用されていた。

 経済が成熟するにつれ、その文化が消滅しただけの事。

 労働組合の争議行為が見られなくなった事は、「労使関係が成熟した」「経済的課題が解決された」かの、どちらかの理由が存在すべきだ。

 日本はどちらであろうか?あるいは両方か?

 もし、そのどちらでも無いのであれば、私たちは「権利を放棄」したことになる。

 意識する、しないにかかわらず。

 因に「ストライキ」は、私たちがいつも気にしている「欧米」では ”常識的” に行われる。

 政財官、全ての人達が大好きな「欧米」ではフツーの事なのだ。

 

 「欧米化」したい日本人が、その人達の常識を知らなくて一体どうする。

 「ストライキ」はグローバルスタンダードなのに・・・