”彼ら”に任せるべきこと
仕事でしばしば訪れる某ニュータウンの通り道に、とある会計事務所がある。
その会計事務所の看板には、「コンピューター会計」と記してある。
一見して、これは不思議な文句だ、と感じていた。
「そんなの、当たり前じゃん・・」
今時、コンピューターを使わずに、一体何を使って企業会計をするのだろうか。
電卓?まさか、そろばんか?・・・とか考えたりして。
そのニュータウンが建設されたのは、80年代前半だ。つまり、その頃は「コンピューター」を使って会計を行う事が商売文句に成り得た、ということになる。
そう言えば、それよりも少し前、「コンピューターによる競馬予想!必ず当たる!」などと言う、新聞広告を見た記憶がある。いや、「プレイボーイ」の広告だったか・・・。
コンピューターが予想するから当たる、とは随分と酷い売り文句だと思う。「予想」などという高尚なアルゴリズムが当時存在する訳が無い。今だって、そう言えるか極めて怪しい。
この頃から、この国には「擬装・捏造・虚飾」が蔓延っていたのだろうか。
日本に、パーソナルコンピューター(PC)が本格的に普及し始めたのは、大まかに言うと90年に入ってから(Windows3.1のリリースは93年)。およそ10年間は、この言い方が魅力的なビジネスワード、キラーコンテンツとして通用したのだろう。
コンピューターが以前は、非日常的なものであった証しとして、さまざまな嘘、勘違い、利用者にとっての希望的観測が都市伝説のようにある。
・コンピューターは計算が得意
・コンピューターは間違えた答えを出さない
・コンピューターは賢い
・コンピューターは速い
-----------------
上記には、多少の語弊(意図的な)を含んでいるが、40年前の人々であれば、結構そのようなイメージを持っていても異常ではなかった。
今や、上記のようなことをPCに求めている人は少数派ではないか、と思う。
個人の殆どがPCを持つ時代だ。その便利さも、欠陥も知っている。
あの”機械”の使い辛さ、理解能力の限界、その割には無意味なコスト浪費を強いる矛盾に辟易としている利用者は「メガ」単位で存在すると予想する。
それにしても、彼らも”賢く”なったものだと思う。
Ponanzaが将棋名人に勝ち越した、とのニュースを見た。
いよいよ、コンピューター(ソフト)も「人工知能」の域に達したのであろうか。
SFの世界では、彼らやそれ(人工知能)を搭載したロボット、アンドロイドの出番は非常に多い。
・「火の鳥」未来編のハレルヤと復活編のロビタ
・「ブラックジャック」のU-11
・「StarTrek(TOS)」惑星ベータ3の独裁者、ランドルー
いくらでもありそうだ。
しかし、いくら彼らが「進化した」とは言っても、まだまだ人間の代替をすることは不可能であろう。
彼らは「論理演算」を行っているのであって、判断や意思決定、思考を行っているのではない。
現在の技術において、”それ”を行っているのは「プログラム」であり、「アルゴリズム」だ。「プログラム」は人間が考えコンピューターに入力するものであり、コンピューターの思考回路から自動生成されるものではない。
言い換えれば、「思考エンジン」を自動生成、自己修正・改善するコンピューターが現出した時が、彼らの「知能」を我々が認知すべき時であり、困難な「判断」を代行し得る分野が発生するのだと思う。
それまでは、彼らはやはり「道具」であり、将棋は名人に打ってもらった方が良い。
見ている側も名人同士の対決の方が面白いし、ワクワクする。
本来は、誰もコンピューターに将棋の名人を求めてはいないだろう。彼らの活躍の場は他にある筈だ。
「2001年宇宙の旅」に出てきた人工知能HALは、「2010年宇宙の旅」ではその汚名を晴らすとともに、”自己犠牲”の感情をも見せてくれた。
一方、StarTrek(TOS)の「コンピューター戦争(原題:A Teste Of Armagedon)」に出て来る惑星エミニア7に住む人々は、自らが意思決定すべきことをコンピューターに任せてしまったが為、500年もの間、大量破壊兵器による戦争を続けなければならなかった(コンピューターは戦争を止めよう、とは言わない)。
「人と人工知能」の関係、責任分担のあり方は、近未来の大いなる命題になるだろう・・・
日曜日の朝、新聞で将棋ソフト「Ponanza」の活躍を知って、そんな、大げさなことを考えていた。