オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

絶望の現実

 豊臣秀吉の「刀狩り」以来、この国では一般市民は”武器”の所持、携帯を禁止されている。

 法律の詳細においては、包丁や小型ナイフはセーフらしいが、どの程度の大きさから当局が”武器”として認識するか、の事実を私は知らない。

 多くの庶民と言われる人達も、それについては同様であろう。

 知らない理由の大半は、そもそも、刃物を持とう、携帯しよう、とは誰も考えてはいないからだ。限界線を知らなくてはならない理由自体が存在しない。

 私達の持つこの世間常識が、年末の首都の街中を夜中の1時頃、若い女性が一人でもフツーに歩ける・・・、という世界中が驚く「ミラクル日本」を実現させている一因であることは間違いない。

 一方で、もう1年前のことになってしまったが、某餃子チェーンを経営する会社社長が銃で撃たれて亡くなる、という信じ難い事件が起きている。

 何故、市民が武器を持つ事を許されない国で、拳銃による一般人殺害が存在し得るのであろうか?

 一体、犯人は、この国の何処で、拳銃を購入したのであろうか。

 一体どうすれば、我々一般庶民は、そのような危険極まりない殺傷兵器を入手することができるのであろうか。

 驚くほどに、麻薬や覚せい剤、危険ドラッグ等の違法薬物は一般庶民に広がっている、と一部の人やマスコミは言う。

 それは本当なのか。

 では、その同じバイヤーから、拳銃や機関銃は入手出来るのであろうか?

 あってはならないはずのものが存在し、それが少なからず殺人事件を引き起こしている、これも事実。

 「銃刀法違反」との禁忌があり、そして殆どの国民がそれを遵守する中で、ごく一部の者が銃を、武器を保持している。

 そして、それを訳の分からない理由で行使する無法者がいるという現実がこの国にはある。

 これは、極めて不当なことだ。

 ある日突然、某場所で銃を突きつけられたら、それを所持しない私達は「死」を覚悟するしか無い。あるいは、それを突きつけている相手に助命嘆願するしか生き残る術は無い。

 その時、武器を持つ側は”神”だ。

 生殺予奪を握る神のような存在に昇華している。

 だから、その中には、勘違いして傲慢極まりない行動に出る愚か者がいる。

 その者が、どのような思想・信条、理念・正義を持ってその行動に及ぼうが、あるいは単なる社会への不平・不満からくる自暴自棄、「根拠のない殺意」であろうが、その事態の背景を理解し、納得することは被害者側には無い。

 そして、一般にはその事態に抗う術を持たない。

 そこには、どうしようもない理不尽な状況が生まれる。

 そして、そこで起きたことは、もう取り返しがつかないし、失われたものは戻ってこない。

 「持つ者と持たざるもの」

 これはお金に限った比喩だけではない。

 武器についても、同様の社会問題が存在する、と私は考える。

 所持を禁止する限り、”それ”はそこに絶対存在してはならないのだ。

 その前提が守られないのであれば、ルールはかえって社会に生きる善良なる存在を絶望的な生存危機に追い込む事になる。

 「無抵抗に殺される事を回避したい」

 この、ごく理性的かつ合理的な思考は、新たな社会秩序を当然、強く要求する事となる。

 

 オーストラリアで起きたコーヒーショップでの立てこもり事件。

 犯人は、”イスラム国”を名乗るテロリストであるとのことであるが、このような事件に巻き込まれた際、私達は身を守る術、根拠が無い。

 ただ、事態の解決を待ちつつ、いつか突然訪れるかも知れない「死」と向き合うしか無い。

 このような事件を見る度に、「拳銃所持の是非」について考える人は私だけではないだろう。

 「自らの身を守るためには、自衛のための手段を持っていなくてはならない」

 これは、某国が21世紀になっても、建国以来の理念として掲げ続ける社会秩序の基本だ。

 我が国では、個人の武器保有は認められていないが、国家レベルでは「自衛力」を保持することを認めてしまっている。憲法では認められていないにもかかわらず。

 

 もし、この国で市民の拳銃の所持が認められていたら、餃子の会社社長は殺害を免れていた可能性もゼロではない。

 「報復」「反撃」の可能性が抑止力を生むからだ。

 多発するスートーカー犯罪や、一部の連続殺人事件も、あるいは未然防止出来た可能性もある。

 手軽な殺傷兵器の日常的携帯は、庶民の行動に一定の秩序と模範をもたらし得る、と考えている。

 つまり、一方的に、自己中心的に、あまりにバカな事をやれば、その見返りに「誰かに撃たれる」という社会的抑止力が発生するという論理だ・・・。

 週末の真夜中、爆音をたてて我が者顔で市街地を走り回る珍走団に対し、日頃の鬱積をはらすために銃口を向ける何者かが現れる可能性を指摘している。

 

 少し飛躍し過ぎかもしれない。

 しかし、狼藉者の行き過ぎた蛮行は、市民が武装することで一定の未然防止可能な部分があることは事実だと思っている。

 そしてそのことは、一方で、別の犯罪が発生する可能性を生む。

 このことは、日本の友好国である某国の実情を見れば明らかだ。

 「自衛手段を持つ権利」と「無差別殺人」「テロ」は、武器の行使として表裏一体なのだ。

 よって、悲しく辛い現実であるが、この世から武器は無くならない。

 このことを認めざるを得ない。

 武器は、利害が対立する相手への威嚇手段として使える。これは、必ずしも「行使」が前提でなくとも構わない。

 だから、無くならない。

 「理解不能な不特定の対象から身を護る」

 このことは、武器による武装を論理的に肯定する。

 だから、核兵器もまた無くならない。

 武器の破壊力の大小は、先の論点とは別の問題だ。「やり過ぎ」かどうか、だけの問題。

 

 無差別テロの背景と顛末は、有史以来手にした「道具」=「兵器」を、やはり今世紀においても、私達は放棄する事はできない、という現実を見せつけているように感じる。

 パキスタンにおける学校襲撃事件と相俟って、絶望の現実を自覚させられた年末である・・・