憲法のルーツ
マグナカルタは、貴族階級の人たちが当時の国王(ジョン王)に圧力をかけ、憲章への署名を強制した結果のものだという。よって、憲法のルーツと言われるものは「市民革命」によってなされたものではない。
貴族達が自分達の身分保障のために作ったものとも言える。
その内容は概ね以下のようなものらしい。
①教会に介入しないこと
②勝手に税金・負担金を課さないこと
③裁判を公正に実施すること
④都市、商業の特権(ロンドンでの商売の自由)に関する規定
⑤地方官の職権乱用防止
⑥狩猟に関する弊害除去
⑦人質の返還、当面の苦情処理
⑧以上のルールを順守するために25人の貴族による監視委員会を設けること
この憲章は、1215年6月テムズ湖畔ラミニードに参集した貴族達によって作成された条項が元になっているが、16年、17年に改定され、その後の40回以上に及ぶ追記・改定・整備が行われているという。
マグナカルタは、イギリス憲法の原典と見なされているが、その内容は実に封建的文書であるとのこと。
上記①〜⑧には ”主語” がないが、相手は紛れもなく「国王」、封建時代の絶対権力者である。
つまり、独裁者の独断専行を”制限”したものなのだ。
それから400年が経過した1628年…。
イギリス議会は、国王チャールズ1世に貴族および庶民の権利と特権を謳った11項目からなる要求を「請願」という形で行った。
これは「権利の請願」(Petition of Rjght)と呼ばれている。
詳細はよく分からないが、
・国王が借入金の名目で人民から金銭を巻き上げたこと
・これに応じないものを勝手に投獄したこと
・兵士を一般市民の家に宿泊(民泊)させたこと
・通常の法によらず軍法会議を乱用し処罰を行ったこと
等を非難し禁止する旨のものだったらしい。
これもマグナカルタと同様に、時の支配者、絶対王の専行に”制限”を加えるものである。
イギリス議会の上下両院は2ヶ月間に渡りこの請願文書を討議したそうだ。
上院は王様の味方(特権階級)、下院は国民代表である。各々が法律の専門家を国会に招聘し激論を交わしたと歴史の教科書にはある。
王様側は下院側を何とか懐柔し「王の主権維持」を記した妥協案を通そうとしたが、それは通らず結果として、両院議員、王様出席の議会において請願と全く同じ内容の法案が裁可された。
「お願い」は法律となった。
それからさらに61年後。1689年…
「人民の権利と自由を宣言し王位継承を定める法律」(Bill of Right)が制定される。
その内容は、次の禁止事項である。
・王権により国会の承認なしに法律の効力を停止したり執行を停止すること
・教会のトラブル処理に従来の機関(宗務官裁判所)とは別のものを設置すること
・王の権力を笠に国会の承認なしに金銭を徴収すること
・国王の請願により収監、訴追すること
・平時に国会の承認なしに軍隊を常設すること
そして、追記された承認事項。
・国会議員の選挙は自由に行わせること
・国会内での言論の自由を尊重しこれを非難しないこと
これらの条項は「権利章典」と呼ばれているが、前代の王様であるジェームス2世の数々の愚行を踏まえ、議会が王位継承者であるウィリアム3世に戴冠の条件として差し出したものである。
因みに、権利章典にはウィリアム3世が死んだ後の王位継承順位についても詳細に定めてあるとのこと。当時、絶対権力者の横暴とその権力継承に国民が如何に苦労を強いられていたかが伺われる。
この章典は、成文憲法が存在しないと言われるイギリス政治の中で、最もそれに近いと解釈されているものであり、多くの国々に文化的・政治的輸出がなされた。
条項の多くはアメリカ連邦憲法、州憲法に取り入れられたと言われるが、事実として制定されたのは、1776年6月12日、ヴァージニア州憲法制定議会が初めてである。この年、アメリカの13州は独立宣言を発した。
ピューリタン達が自らの権利を国王に主張してから、およそ150年後、移民の子孫達が新大陸にて民主主義の遺伝子を開花させたのだった。
このムーブメントは止まらない。
アメリカの独立戦争は、それを支援したフランスの国体自体を揺るがすリバウンドを起こした。
絶対主義は終焉に向かっていた…