オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

黄金週間に思うこと

 今日が連休最後の1日。

 別に地球最後の日ではないので「最後」と表現する必然性はない。

 私に限らず、でも、多くの人達は「五月連休最後の日」という比喩をこれまで使っていたと思う。

 今年は、少し、いや全然違う。

 

 ゴールデンウィークという表現は、日本からは無くなった。

 そもそも、”黄金週間”などという言葉の存在が、この国のチープな労働事情の現状を示していた。

 高々、1週間程度の連休があること…。

 しかし、ただそれが貴重で重要で、今働いている者たちの安息と希望、家族との連帯、地域社会との結び付き等、色んな社会的意味合いを持っていた。

 この時期の民族大移動は、昭和の頃からずっと続いてきており、これは日本という国の文化・習慣とまで言われるようになった。

 日本の労働者たちは、諸外国と比べて休暇を取らない。働きすぎだ。平成の初期、こういうどちらかと言えば、批判的な論調がUSAの経済界にはあった。

 そして、その圧力を前に日本は変わろうとした。

 色々、口実をつけて祝日を延々と増やしてきた。

 政府が例え「Go Home」と言ってもこの国のリーマンたちはそれに従わなかった。

 よって、旗日を増やすしか政府には手が無かったのだ。

 政府が何を言おうが企業経営者たちには関係なかった。

 当時の経営者団体は「国際競争力」という言葉を多用していた。これを高めることだけが、資源のないチープなこの国の産業・経済を守る手段なのだと。

 だから、コスト増に繋がる賃金引き上げなどとんでもないと言い続け、今では信じられない話であるが、「デフレで生活向上できるでしょ」とまで言っていた。

 現実は語るまでもなく…

 

 しかし、残業を苦役ではなく美徳としてこなす大和民族を見て、USA議会は驚いた。理解できなかった。

 「何で自主的にサビ残やるの?」

 そして、「こいつら、言っても分からんバカ達だ」と見切りをつけた。

 USAは、日本の経営者たちにこう言った。

 「俺たちが寝ている時に、残業してまで物を作るって反則だろ。お前らは、国際的に見れば公平な競争をしていない。アンフェアだ!」

 「国際的」

 日本人経営者、政治家、有識者、俗物が食いつく、最も誘惑的で甘美、曖昧で、意味不明な、しかし統制力のある無意味な日本語だ。このワードの破壊力は凄まじい。

 その後、政府は「日本の年間総労働時間は、欧米の実態を見据えて1800時間とする」と表明し閣議決定した。

 ちなみに、この時の世界の実態は、USAは1900Hr、フランスが1600Hr、日本は2300Hrくらいではなかったと記憶している。ドイツはその中間、1800くらい、イタリアは良く覚えていないが、ヨーロッパ最短のイメージはない。

 

 文化を欧米に倣うのは良い。別にバカンスのあり方については否定しない。

 だからこの国に、法で定めた絶対的存在の連休週間があっても構わない。

 問題の本質は、国が定めないと ”連休” も取らない、取れないとのお国事情の方だ。

 ”五月連休の過ごし方云々” など、そもそも「欧米基準」で見れば、”お前ら、バッカじゃね〜”の話である。

 「コロナ感染のリスクを冒してまで会社に行く理由を教えて欲しい」

 これが、国際標準、グローバルスタンダートだ。

 ちなみに、こういうイシューにおいてこの国の経営者は「欧米」との比喩は使わない。これは一貫している。

 

 そして今。

 

 令和に至って2年目。

 あまりこの国の価値観がいい方向に変化したとは思えない。

 相変わらずブラックだ。

 それは、おかしいと思う。

 私のような世代がリーマンとしては、ほぼ絶滅している筈なのに、何でいまの会社って、私が新人だった時と同じくらい息苦しいの?

 俺たちのような、鬱陶しいジジイたちは、もはや会社にいない筈なのに、何でそんなに生き辛らそうなの?

 一体、この醜悪な日本企業の劣悪DNAを継いでいるのは誰だ? 

 そんなもん、受け継げとは私は部下に言ったことはない。

 「成果で測ると会社は言ってる。であればプロセスは問わない。皆の価値観でやれ。私はその管理者・責任者であるだけだ。だから、必要な時には相談してくれ、報告してくれ、遅いのは絶対にダメ!」

 これが私の部下への指示の全て。

 「能力・成果主義」と宣言した瞬間、そうするしかないでしょ?

 

・・・・・

 

 「勤勉は美徳」、「労働は苦役」

 随分と極端な価値観が存在するものだ。

 「働かざる者食うべからず」→「no work no pay」

 こんな価値観が、私の子供の頃からずっと続いている。その前、なんという価値観であったかは知らない。

 

 今年の5月連休を終えて感じるのは、これまでの「長期連休」って一体何だったの?ということ。 

 私は、この1週間ほぼ家の中に居た。

 「Stay Home」であった。忠実な市民であった。

 この1週間は、無駄であったような気もする。何もしていない。

 これまで、経験したことのない週間でもあった。

 FaceTimeを使って、孫たちと”オンライン・ピザパーティー”をやれたのは良い思い出だ。

 しかし、それでもこの1週間は無為であったと正直感じている。

 いつでも、どこでも、自由に休暇が取れるのであれば、このような気持ちにはならなかったのだろうか…。

 

 一体、私たちは ”休息” の本来の意味を理解しているのだろうか…