オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

グローバル化と対峙するJUDOと寄り添う私たち

 柔道66Kg級、海老沼選手の試合で審判が覆るという超異例の事態が発生した。私もTVで見ていて何が起きたのか、と目を疑った。実に珍しいことであるらしい。

 私は知らなかったが、何時からか柔道では審判の参考にビデオを取り入れているそうだ。今回は、そのジュリーとかいう人達のおかげで、海老沼選手は九死に一生を得たことになる。

 最近のオリンピック柔道においては、正直、疑惑の判定が多く、ウンザリしていたことも事実である。今回の事件(?)も、またか!と思ったが、結果はこれまでと違った。

 日本人選手に絡んだことであるので、贔屓目があることは否定しないが、よりフェアで公正なジャッジを目指そうとする国際柔道連盟の強い姿勢を感じた事は事実である。

 ジュリーとやらが、審判の判定を覆す事ができるということに対し、批判の声が出るのは当然のことだろう。

 ビデオが真実を語るのであれば、人間の審判はいらない、そう言う人達もいるであろう。

 しかし、しかし、である。

 シドニーでの篠原(現監督)の敗戦を見ているものにとっては、今回のシステムの方が絶対的に良い。

 誤審はあってはならない。絶対にだ。

 そのための努力をしてほしい。

 ”人間だから”なんていう言い訳は聞きたくない。

 あの時、篠原は表彰台に上がっても涙を流し続けていた。プレゼンテーターが肩を叩いて激励していたのを鮮明に覚えている。

 篠原は泣きながらも潔く自らの負けをこう表現した。

 「弱いから負けた・・・」

 当時、まだ若かった(失礼)NHKの有働キャスターが泣きながら伝えていたのを思い出す。

 あの時の審判は”内股すかし”という高等技を知らなかった、とまで後日言われたものだ。

 そんなアホな話は無い。

 サッカーで言えば、オーバーヘッドキックを反則とするのと同じだろう。

 本来、ボールは足を蹴り上げてゴールに入れるものだ、とかいって・・・

 レスリングと柔道に大きな違いはないと考えている人達にとっては、転んだ方が投げられたもの、という定義があっても異常ではない。

 いきなり下半身を取りいくプレースタイルは、レスリングみたいで柔道を知っているものにとっては甚だみっともない。

 しかし、反則ではなく、倒せばいいと考えている人達にとっては何の問題も無い。ルールブックに従っているだけだ。禁止にはなったが。

 しかし、柔道はそんなスポーツではない、と多くの日本人は声を大にして主張するだろう。立ち技をいかに奇麗に決めるのかを見たい!

 井上康生の内股にしびれた私たちは、外国人選手達のプレーを眉をひそめながら見ている。

 「こんなの柔道じゃない・・・」と。私もそうだ。

 しかし、今や柔道は武術ではなく、世界中にアスリートをかかえる歴然としたメジャー・スポーツである。国際標準的にいうのであれば、オリンピックで私たちが見ているのは、スポーツであり、武術ではない。

 よって、私たちが良しとしない試合風景、選手の挙動・立ち振る舞い、技の繰り出しは、国際的(相当嫌いな表現)に見れば何ら問題は無い。

 ”柔道”は日本人のもの。しかし、”JUDO”は世界のそれを愛するアスリート達の共有財産なのだ。

 試合を見て確認すると良い。

 全選手、礼に始まり礼に終わる、を守っている。

 畳に上がる時、降りるときの礼の姿勢、判定を待つ間の襟を正し正姿勢で待つ態度、ものの見事に全選手が守ってくれている。当たり前の光景になった。

 何か、無性に嬉しくなる。 

 ヨーロッパではフランスが一番の柔道先進国であったのはもう昔の話。カラー柔道着が物議を呼んだときもあったが、今ではもうそんな違和感は無い。

 日本発祥のこの武道(スポーツ)は、ワールドワイドな普及と引き換えに、いくつかの妥協をしてきたのだ。しかし、その見返りは十分にあった。

 今やJUDOは全世界で愛好されている。

 グローバリズムの波の中で、見事にその存在価値を維持しているのだ。そして、さらに進化しようとしている。

 今回のビデオ審判(?)も、よりJUDOを真摯に評価しようという関係者の熱意の表れであると受け止めたい。

 もはや、JUDOは、私たちだけのものではないのだ。

 それは、喜ぶべきであろう。

 一方で、3位決定戦で海老沼選手の見せてくれた”つり腰”という豪快な技を見て、多くの柔道ファンが美しいと感じたはずだ。

 そう、たしかに柔道はグローバル化され、”JUDO”になった。

 しかし、私たち日本人は彼が見せてくれた技に”美”を感じる。

 これこそが”柔道”だ。

 勝ちに拘るのであれば、もっと違う国際試合の戦い方はある。しかし、私たちはまだまだ、これ(プレースタイル)に拘るだろう。

 北京で負けた塚田選手は技ありをとったにもかかわらず一本をとる為に責め続け、結果、返し技で負けた。

 しかし、逃げずに責めに出た彼女の姿勢こそが、柔道チャンピオン・王者に相応しい戦い方であると我々は考えている。私たちは彼女のその姿勢に武道家としての究極形を重ねている。本来、柔道の試合はこうあるべきだと。

 ロサンゼルスオリンピックで山下と決勝戦を戦い、そして負けたモハマド・ラシュワンが記者に聞かれて言った言葉。

 「何故、山下の右足を狙わなかったか?それは私の信条に反する」

 これは何と1984年のこと。

 30年も前のエジプトのアスリートには既に武士道が宿っていた。この精神を世界に広げたのは柔道という武道である。

 グローバル化しても、私たち日本人はこの精神性を変える必要はないと思う。

 この精神主義国際競争力を落としていると言われても変える事はない。

 ”美徳”のない人種になりたくはない。

 私たちは、JUDOと共に歩めば良いのではないだろうか。

 ここに一つの道標があるような気がする。