熱情のオルガナイザー
1274年10月、玄界灘に浮かぶ対馬、壱岐の沖合に大船団が現れた。その数、大小をあわせ凡そ1000隻、兵士25000人。
軍団はあっという間に対馬・壱岐を征服・占領し、住民を虐殺、博多湾に迫った。
この戦闘は、鉄砲をはじめとする新鋭兵器を有する元軍の圧倒的勝利であったが、偶然にも玄界灘を襲った暴風雨により終結することとなった。
元軍の溺死者は13000人を超えたと「高麗史」には記されているそうだ。
この後、1281年1月に元軍はリベンジに来る(結果はご存知の通り)。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いて凡そ90年。日本は外国からの本格的、かつ大規模な攻撃・侵略を受けるという未曾有の国家的危機を迎えていた。
この侵攻に対し鎌倉武士は太刀打ちできなかった…。
結果として玄界灘の自然現象が国家の危機を救うことになったが、これを契機とした「神風」という迷信は、約6世紀後、この国の人民に耐え難い苦難を強いることになる。
文永の役を遡ること14年前。
この国難を予言したものがいた。
日蓮である。
日蓮の生まれは、安房小湊。12歳で出家し各地で修業を重ね、法華・真言の両教を極めたという。
当時の著名な僧侶が京都を拠点としたのに対し、彼は鎌倉を本拠とした。記録によると1254年頃から小町で辻説法を行ったとのこと。
建長寺開山は1253年というご時世である。
時の権力者、執権北条時頼が(のちに)鎌倉五山一位となる臨済宗総本山の禅寺を建設したばかりの頃に、彼は「法華経こそが真実の仏説である」と公言した。
「南無妙法蓮華経」
彼は、乱立する幾多の仏教宗派をたった7文字の題目に集約・統合した。そして、激しい言葉で他の宗派を攻撃した。
日蓮の発言は、過激かつ刺激的であった。
「法華経を無視する念仏教は邪法。禅は悪魔の法である」
「私は日本国の棟梁。私を殺すことは日本国の柱を倒すことだ」
幕府の無策を公然と批判し公開討論を求めたこともあったという。
強烈な言葉で他宗折伏を続けた彼は、仏教界・武家社会から相当疎まれたようだ。
しかし、彼のそれはスタンドプレーではなかった。
彼の真意は ”庶民の救済” にあった。
1257年8月、鎌倉を大地震が襲った。この前後、天災地変が続く。人々の困窮は限度を超えていたようだ。
1260年7月16日、「立正安国論」を前執権である得宗:北条時頼に献上する。
一説によると、彼はかかる災難の原因と対策を実相寺(静岡)の経蔵で3年間考えた末、安国論として纏めたそうである。
内容もやはり過激だった。
・正法(法華経)を建立して国土を安穏にすべし
・邪法とは法然(源空)の念仏宗のこと。邪法を原因とする7難の一部は既に起きている
・5難は、地震、疫病、暴風雨、火災、旱魃(かんばつ)である。
・私が願うことは、個人の救済、社会の救済
・穢れた国土を楽土化するために、皆が悟りを開くよう精進すべき
・もし法華経に帰依しないと、あと2難、自界叛逆難、他国侵逼難が来るぞ
自界叛逆難とは内乱、他国侵逼難とは他国による侵略である。
この建白書は、彼の意に反し、幕府の大ひんしゅくを買う。
彼は終生、権力から命を狙われることになる。このあと、彼が被った災難を「4大法難」と呼ぶそうだ。
その1。松葉谷草庵の焼き討ち。安国論献上の40日後。
安国論に反発する何者からか命を狙われ焼き討ちにあう。今の妙法寺のある辺りに彼の草庵があったそうだ。幸い彼は難を逃れ、千葉県中山の法華経寺にかくまわれる。
翌年、鎌倉に戻った彼は訴訟を受けていたことから即逮捕。伊豆(伊東)に幽閉となる。輸送の途中、七里ヶ浜で首を打たれそうになるが、その際、奇跡(何があったかは不明)が起こり命拾いをする。
伊東への流罪は1年9ヶ月。これを伊豆法難(その2)という。
その3。小松原の法難。
1264年、刑を許され安房小湊に帰郷。父の墓参りをし母を見舞った日蓮であったが、ここで襲撃を受ける。
天津の城主、工藤氏の世話になっていたようであるが、工藤主従、弟子たちの多くが斬り殺された。日蓮自身も眉間に傷を負ったようだがなんとか生きながらえた。
日蓮はこれにめげずに房総の地で布教を続ける。
この頃、蒙古の使者が繰り返し幕府を訪れる。
それを知った日蓮は、他国侵逼難の予言的中を恐れ、時の執権や関係者に立正安国を説く手紙を送った。
返事は無かった…。
いや、この手紙を逆手に取られ鎌倉の評定所に召喚されてしまう。
幕府は、日蓮の弟子達260名を逮捕するとともに、松葉谷草庵を襲ってそこを制圧。日蓮を拘束した。
その後、日蓮は鎌倉の大路(八幡宮周辺)を引き回わされ、江ノ島の側、龍口寺付近で斬首されることとなった。常栄寺で尼僧が馬上の日蓮にぼた餅を献上したのはこの時のエピソードとのこと。
絶体絶命である。
しかし、仔細は不明であるが何故か日蓮はここで首をはねられることなく、佐渡に流されることになった。
これを竜口法難という。
佐渡に幽閉中の1272年2月、北条時輔の乱が起きる。自界叛逆難の予言は的中した。
人々には、それが他国侵逼難に思えた。
周りの人達の日蓮を見る眼が変わった。
同年、日蓮は赦免される。
一旦は鎌倉に戻るが、程なくその地を去り、身延久遠寺に入山。
西谷に草庵を構えて以降、9年間、一歩もそこを出なかったという。
弟子、六老僧に後を託し1289年入滅。
これが、熱情溢れるオルガナイザー、日蓮上人の生涯である。
鎌倉を散歩していると日蓮上人を所縁の場所をいくつも見ることができる。
鎌倉の小町に住む人々の幸せを常に願った日蓮。
今も、これからも鎌倉の人達に愛され続けるであろう。
面影を見たければ、ぜひ鎌倉にどうぞ…。
法性寺
妙本寺の竜
鎌倉ビール
鎌倉に来たらやっぱりこれ