全入時代における入試制度改革の意味(わかりません・・・)
「センター試験」の見直し論議が話題になっている。
今の試験制度は、遡ると1979年から始まった共通一次試験がルーツだ。この試験制度の導入趣旨は忘れてしまったが、一つは大学入試試験の極端な奇問・難問による選抜方法の是正があったと記憶している。
入試試験対策本は、当時から数多く存在したが、それを読んでみると当時の大学の選抜思考の際立った特徴、振り切れている方向性が良く分かる。私個人の感覚では「これはこれで面白い」というもの。しかし、これらの工夫を凝らし過ぎた入試問題には、高校での学習内容では対応できない、という批判があったようである。
そして、その批判への対応策が「総合力を問う」というもの。
英語、数学、物理だけ出来てもダメ、古典、歴史に強いだけでもダメ、ぜ〜んぶ分かっていないと大学生になれない、という制度だ。
共通一次試験の出題範囲は何と、5教科7科目。
これは、当時、大きな改革だった。
専門家ではなく、ゼネラリストを求める・・・、という方向転換だ。
少し極論を言うと、天才ではなく秀才、四角いものより丸いもの、一芸に秀でるのではなく、何でもそこそこできる方が正しい、という考え方である。
そして、いわゆる共通試験を導入したのは当時の国公立大学のみ。これらの試験制度に対応できない学生は、浪人してでも共通試験対策をマスターし国公立をねらうか、授業料の高い私立大学に行くしか無かった。当時の公立・私立の授業料格差は今の比では無い(公立は本当に安価だった)。
この制度によって、「優秀」の定義は「ある特定の分野に強みを持つ」から「5教科7科目をこなせる」に変化した。学生は、好きな学問、分野研究だけに没頭していられない時代を迎えたのだ。
それから30年以上が経過した。
今やセンタ試験を利用するのは国公立だけではなく、多くの私立大学も参画している。
一方で、良く言えば各大学の理念、特色を活かした様々な形での推薦入試が取り入れられている。
以前(導入当初)に比べると、大学入試に占める共通試験の重み、位置付けは大きく変わって来ているものと思う。
「一発勝負は酷だ」という批判があるらしい。
確かにそう思う。
だからこそ、新制度が必要なのだと当局は言う。
しかし、新制度については、「高校生活を歪める」「部活動に専念できなくなる」等、弊害を憂慮する声も出ているらしい。
学生の本分が「勉強」であるとすれば、それに専念することに周りが何も心配をする必要はないはずだが、そうもいかないらしい。
3年間の学生生活をプレッシャーを感じながら過ごさせるのは、またそれはそれで酷だ、と言いたいのであろう。
それも分かる・・・
この手の制度改革は本当に難しい。
頭の良い人達は、是非とも知恵を絞って頂きたい。私には、何がベストなのかは分からない。
しかし、文部科学省に言っておきたい事もある。
「教育」とは国家の根幹・基幹を形成する重要事業だと思う。
その国の文化、思想、歴史を踏まえるとともに、将来の長期展望に立って方向性を決めるべきものだ。
よって、諸外国を真似た制度作りは止めてもらいたい。
「欧米」は関係ない。
「国際化」も別の話。
「人・民族」を創世することなのだ。自らの理念に基づき決定すべき事柄だ。
USA、イングランドが何をしていようが関係ない。
人ん家のことは気にせず、自分ん家の子供の教育方針は自分達で決めるべきだ。
それにしても「全入時代」であるのに入試制度を替える事がそれほど重要なのだろうか?
大学進学率が2、3割の時代ならまだしも、今は望めばどこかの大学に入れる時代である。
いや、勉強嫌いであっても、専門分野が決められなくても、経済的な事情がなければ皆が大学に進学する(しなくてはならない)時代である。
学士だらけのこの国。高卒者を探す方が大変な国である。
皆、一体何を勉強する為に大学に行くのだろうか。
随分前であるが、ノルウェーに行った際、現地(オスロ)に住んでいらっしゃる日本の方に聞いた事がある。
ノルウェーでは、大学の授業料は無料だそうだ。
しかし、進学率は50%もないと言っていた。
「何で皆進学しないのか?」と訪ねたら、「ゆずさん、理由もないのに大学に行って何をするの?」と逆に質問された。「皆、早く仕事について一人前になりたい、ってのが普通でしょ」と言っておられた。
日本とノルウェーでは、文化も考え方も異なるので比較はできない。しかし「大きな理由も見当たらず大学にいくのはムダ」というのは当たっているかも知れない。
「皆が行くから私も行く」
日本人にとっては立派な理由であるが、それにしては4年間という時間とそれにかかるコストは膨大なものだ。
浪費だけは避けたいものだ・・・