悪手が生む最適解
昨晩、総理会見があった。
今週の月曜日から全国の小中高校が休校になるとのこと。
今、日本全国を社会不安に追い込んでいるコロナウィルスの封じ込め策の一環である。
これまで、
「厚生労働大臣に対策を丸投げ」
「対策が後手後手」
「思い切った有効策を打てていない」
等、散々な言われようであった総理が下した、ある種 ”英断” かも知れない。
いまのところ、”愚策” との評価が優っている感はあるが。
今回の施策の優劣・評価には、あと数ヶ月はかかるだろう。
とにかく、早く終息してほしいものだ。
一方で、全国のドラッグストア、スーパーからトイレットペーパーが無くなったそうだ。
50年前(1970年頃)のオイルショック時の「買い占め騒動」を思い出す。
あの時、店頭から無くなったのは、トイレットペーパーだけでは無かった。何故か、歯磨き粉や洗剤、ごま油など、日常製品の多くが買い占めにより私たちの前から姿を消した。
物価は、とんでもないスピードで上昇し、「狂乱物価」とまで言われた。
買い占めによるモノ不足のきっかけは、電車の中での女子高生の会話だと今は言われている。
「ねえねえ、知ってる?」
「何が?」
「中東での戦争のせいで石油が入ってこなくなるから、トイレットペーパーが無くなるんだって」
「大変、今の内に買っとかなきゃ!」
真偽は不明であるが、大凡この程度の会話…。
今、考えればバカバカしい話だ。
しかし、インターネットがない時代の話であるにもかかわらず、この噂、デマはあっという間に日本全国を駆け巡った。
それは恐らく、光の速度よりも速かったに違いない。
アインシュタインは間違っていた。
実は、光速を超えてのコミュニケーションは可能だったのだ。
止むを得ない。
そもそも、量子力学を否定していた彼には理解できないことだ。
大阪の阪急電車で交わされた女子高生の会話と全く同じ内容のデマが、恐らく函館と京都の路面電車の中の主婦同士間で発生していたのだ。
この事象は、量子力学の世界ではあり得るが、彼の提唱した相対性理論では説明できない。
JK、恐るべし。
あの買い占め騒動の中で、漁夫の利を得ていたものは多く存在する。そして、今回も然り。
ネット上に有能な転売システムが溢れる現在、狡猾・邪悪な輩に騙され、出し抜かれる正直者・マヌケは50年前と同様に大量発生すると想像する。
そもそも、品薄になるのは買い占めをすることが原因だ。
一旦、商品が姿を消したことで不安に駆られた人達は、さらにお店に殺到する。
すると、入荷された途端に必要以上の買い方がなされるため、ますます品薄になる。
やがて在庫が尽きると、本当にモノはなくなる。一定期間ではあるが。
そして、そこに転売ヤーが発生し瞬く間に増殖する。
この循環は、いくら止めようとしても止まらない。どうしようもない。
東日本大震災の時も、一時的に米が買い占められ店頭から姿を消した時があった。
そのとき、私の妻は平然としていた。
「どうする?」
「家にしばらく食べるだけのコメはあるよ。買いに走るほどのことはないわ。もし無くなったら別のものを食べればいいじゃん。缶詰なら山程あるわ。」
「ガソリンスタンドにも車の列ができてるらしい」
「ガソリンがなくなったら車に乗らない。そのうちに何とかなるでしょ」
「みんな、焦ってるのか。不安なんだな。」
「そんなに焦っても、心配しても、どうしょうもないじゃない。なるようにしか、ならないわよ」
あの時の妻は、肝っ玉が据わっていた。頼もしかった。
「家のことは彼女に任せよう。私は私の考えられること、やれること、やるべきことをしよう」
私は食料のことよりも、万が一の際、どうやって家族を取りまとめてこの地を離れるかを考えていた。その時の私は、福島原発のことが気になっていた。
大阪に住む姉は「いつでもこちらに避難してきていいよ」と言ってくれていた。
・・・
先週の金曜日、彼女が叫んだ。
「ねえねえ、スーパーに行ったらトイレットペーパーがないの!何で?!」
「ああ、コロナ対策でマスクを量産するから原材料が不足し、そのとばっちりでトイレットペーパーが無くなるってデマをSNSで飛ばした輩がいるらしい。政府やメーカーはデマだから買い占めするな、って騒いでる。」
それを聞いて、妻は大笑いした。
そうか、やはり彼女には愉快・痛快なことのようだ。
彼女は、ボソッと言った。
「こないだ、コストコで山ほど買ったんだよね。たまたまだけど…」
話を一斉休校に戻す。
総理の要請は無理筋、悪手…かも知れない。
しかし、良い面が全くない訳ではない。
いくつかの地方自治体では、休校自体を見送ったり、時期をずらす、あるいは地域を限定する動きが出始めている。
共働きやシングルの親を支援するため、子供を学校施設で預ろうとする動きもある。
各々が、地域社会の実情を踏まえて、考えうる最適手段を探し始めているのだ。これは凄く良い事だ。
今朝のNHKの討論番組を見ていても、野党は施策の有効性・エビデンスを問うている。
専門家の意見も聞かずに、独断専行、唐突な強行施策を打った、と責めている。
総理は、
「あなた方の賛意をもらうためには、専門家会議を経て多くの意見を取り纏めた上で、絶対間違い無いとのエビデンスを得た施策でないといけない。それでは思い切った(極端な)施策は打てない。この1〜2週間がヤマだ。そんな時間はない。」
と考えたのだ。
恐らく上記のプロセスを取ると、賛否両論、総論賛成・各論反対となり議論は沸騰、国会が空転する、との悲観的ストーリーも考え得る。
だから、彼は先手を打った。
良し悪し、有効性評価を考慮せず。
そして、それがきっかけとなり、各自治体は、有効的な具体的施策は何か、自分たちにとっての最適解は何か、を考え導き出そうとしている。
総理が決断せずにいたら、責任を逃れたいがために、国からの指示を首を長くして待っているだけの無能な指導者もいたかも知れない。
今回は、各自が自らの責任で行動を取ろうしている。これは、これでいいことだと思う。
最悪の手段を既に提示されているので、それよりも最善の施策なら出せる。考えつく。
悪手が最適解をもたらすこともあるのだ。
しぐれて友の野辺送り
今日、先輩の告別式に参列した。
突然の訃報に驚いた。そういえば、最近、社内で姿を見かけなかった。
周辺の人たちに聞くと、昨年の夏辺りから闘病されていたらしい。
全く知らなかった。
とても優しい人で、入社して知り合って以来、よく声をかけて頂いていた。
若い頃に、戸塚の飲み屋で偶然出くわして、2次会でカラオケを一緒に歌った記憶がある。
つい、この間あった時も、いつも通りニコニコしていた。
享年60歳とのこと。
霊前で手を合わせ呟いた。
「先輩、ちょっと早かったね…」
野辺送りは辛い。
棺に花を添える時の遺族・親類の方々の嗚咽に私は耐えられない。
そもそも、涙もろい。
EQスコアを見ても、共感性の部位が特に高く、周りに影響され過ぎな資質である。
葬儀のセレモニーは苦手だ。いや、得意な人はいない。
今日、礼服を着て黒いネクタイを締めたが、正装なんて一体何年振りだろうか…
ふと、昔のことを思い出した。
20年程前、某組織の代表であった私は、メンバの葬儀にとある街に行くことになった。
聞いたこともない土地である。交通手段も詳しくは分からない。
そんな時、事務所の電話が鳴った。
「ゆずさん、彼の葬儀に行ってくれると聞きました」
「うん、直接面識はないけど仲間だからね。焼香だけはさせてもらうつもりだ。」
「ありがとうございます。彼は僕と同期入社なんです。」
「そうか、残念だったね。お悔やみを言うよ」
「彼の葬儀には、同期の仲間たちと一緒に行くつもりです。彼の実家は、かなり、駅から距離のある場所なので私たちは車で乗り合わせて行くつもりです。もし、予定がないのであれば、私たちの車に同乗されませんか?お互い、不便がないと思いますが」
「えっ、いいの?同期の皆に混じっちゃって。」
「良いですよ。そもそも、僕らの同期は先輩方に比べると圧倒的に少ないんです。そんな中で、私たちの友人の葬儀に来て下さる先輩がいるのなら、是非ご一緒したいです。」
「なんか、ウルッときた。ありがとう。喜んで提案に乗るよ。」
私は、およそ10歳くらい年下の若者たちと数時間の車旅をした…
私が以前いた会社に就職した時は、「SEが百万人足りない!」と日経は吹聴していた。
大学卒のコンピューターエンジニア志望者は引く手数多だった。
私が入った会社も、数年前から300人規模の大量採用を行っていた。
そんな中、バブル終焉後のまさに「失われた10年」にさらされた彼らの同期入社数はなんと50人だそうだ。
当時、我が社は既に社員4000人を超え、売上は2000億円を越していた。
そんな中で、50人という同期数は当時の我が社では過去に例がない少数派だった。
だが、それが彼らにとって特別な意味があった訳ではない。
私に連絡をとってきた彼は言った。
「先輩方が羨ましいです。同期入社の仲間が多くて。でも、私たちも良いところがあります。数が少ない分、関係性が濃いんです。より深く同期の個々の部分を知っている。理解している。」
「すごいね。」
「彼の見送りにあなたが来てくれて嬉しいです。」
「いい仲間だったんだね」
「はい」
彼らの親しい友人の告別はしめやかに行われた。
ご両親とも話す機会があった。
大層、参列に感謝されたがそんなお気遣いをされるようなものではなかった。
組織の代表として行っただけだ。にも、かかわらず、社内の彼を含めて随分と気遣いをさせてしまった。
申し訳なかった。
だが、彼らとともに、仲間を見送れたのはよかった。
帰りの車中で、彼らの会話を聞いていて本当にいい仲間だったんだな、と改めて思った。
数ヶ月後、彼から連絡がきた。
「彼の墓参りに行って来ました。丘の上から故郷が見渡せるとてもいい場所でした。ゆずさんとは短い旅でしたが、彼もきっと来てくれたことを喜んでいると思います。」
これまで生きて来て、こんなさりげない、胸に刺さるメッセージをもらったことは後にも先にもない。
今、彼ら・彼女らはどうしているんだろうか。
本当に、久しぶりに葬儀の場に行った。
自分もそう長くない将来、同じ境遇にいると思う。
それも宿命。
先輩、本当に早過ぎたね。
「蝉時雨、しぐれて友の野辺送り」
野辺送りは苦手だ…
マナー裁判所
先日、傑作なエピソードがネットで紹介されていた。
簿記の教科書だかに書かれていたらしい。
これ、どう言う理屈で支払う側が店に対し、へり下るべきなのか、さっぱり不明だ。
クレジットカードを利用する際、店側がカード会社に手数料を支払っていることは事実であり ”常識” だ。VISAやJCBが何を収入にしているか考えれば仕掛けは自ずと分かる。
だからと言って、店側が損をしている訳ではない。
その手数料分は、広〜く、浅〜く、料金に転嫁されている。へり下る根拠は無い。
当たり前じゃないか。
だから、その手数料を払いたくない店は、「カード利用不可」としている。ただそれだけのこと。
みんなは、amazonを利用する際、コメント欄に「すみません」といちいち記入しているのか?
「すみません」のマナーなんか、存在しない。
人にお酒を注ぐ時には、徳利の切先を上にしなくてはならない。これは「縁(円)を切る」ことを避けるため。徳利の断面が円になってるからだって…。
私は30〜40代にかなり多くの社外の人と酒を飲んだが、こんなこと聞いたことがないし、見たこともないし、誰に指導されたこともない。
ありえないマナーだ。
そんなことより、酒が溢れて相手にかかったりしたら一体どうするんだ?それこそ、失礼千万だ。
グリーン車を予約する際、2座席の片方が埋まっていたら、その隣は空けて(座席指定しない)おかねばならない。グリーン車を使うようなセレブは快適な空間を買っている訳であり、隣に人が座るのは無粋だ。自分だって、そうだろ?
そんなことはない。
隣はいない方が気楽であるが、それは ”当たり前” ではない。
そんなこと、他人に求めてどうする?
どこを予約しようが、人の勝手だ。そんなマナー、存在しない。アホか!
これの応用編で、航空会社はファーストクラスの乗客の誕生日を熟知しており、その方の誕生日フライトに当たった場合は、何らかのサプライズを用意せねばならない、がある。
乗客の誕生日まで知るもんか。
キャセーパシフィックならあるかもしれないが(”真実の瞬間”?)
就活において「自由な服装でおいで下さい」と人事担当に言われたら、スーツで臨まねばならない。あるいは、本当にスーツ以外で行かねば不採用になる。
Yes or No?
これ、スーツ以外の本当に自由な服装で良い。
緊張しながら面接に来る学生を試すような企業には、そもそも行かない方が良い。
会社幹部のどこまでが確信犯でトラップを仕掛けているのか知らないが、少なくとも、人事部が腐っている会社にろくなものはない。
また、面接に来る学生は、”顧客の一人” だ。
失礼な対応をしていい訳が無い。
そんなことも分からない会社はやめておいたほうがいい。
面接室に入る際のノックは3回、面接官に「どうぞ座って下さい」と言われるまで立ちっぱでいること…。これも怪しい。
私はそんなこと(ノックの回数)気にしていないし、どうでもいい。
緊張している学生さんが直立不動で、立たされているのも気の毒だ。
「座ってよろしいですか?」と言って勝手に座りなさい。私があなたから聞きたいことは、もっと別のことだ。
外国のサッカー場で試合観戦後、自分たちの出した「ゴミ」を回収するのは、掃除係の仕事を奪うことになるからマナー違反だ。
バカか?
5〜6万人収容するスタジアムで、日本人数人がゴミ拾いをしても彼ら(清掃係)は失業しない。
ほんの数分でも、彼らの仕事が早く終わり、その結果、家に帰れるので、感謝される。
これを吹聴した人の頭はカボチャに違いない。
他にも色々と謎のマナーはある。発明は継続中らしい。
コンピューターウィルスがワクチン開発会社によって作られていると言う都市伝説のように、謎マナーはマナー講師たちにより ”発明” されているのかもしれない。
で、あれば、今こそ「マナー裁判所」が必要だ。
ここで全ての事案は審議され、その根拠・必要性・社会的必然性は議論されなくてはならない。
ネットを通じて訳の分からないデマを飛ばす輩がおり、少なからずそれに惑わさせる人たちが存在する事実。
「マナー裁判所」…
あながち悪い冗談ではないかもしれない。
ちなみに、下記はどうか。
・三菱の人を接待する時は、「キリンビール」を用意せよ。
・日立の人を接待する時は、「サッポロビール」(エビス)を用意せよ。
・ビールを注ぐ時は、片手で瓶のお尻を支え、両手で行え。
・その際、ラベルを上にすること。
これは、本当だ。
サッポロビールは日産の方にも使える。
VW UP! 60000Kmへ
昨日、用あって圏央道を使い埼玉県を行き来した。
先週末、「翔んで埼玉」がTV放映されたばかりであったので、身内ではその話題で持ちきりだった。
以前から、東京圏の人たちからは色々と言われるサイタマであるが、住むに当たって、その環境は素晴らしい。
土地は広々としており、地元野菜も豊富。社会インフラも相当に整備されて来ており、JR高崎線沿いには閑静な住宅街が広がる。子供を育てるには最適ではないだろうか。
私はサイタマを買っている。
さて、車を運転していてふと気がついた。
海老名ICを降りたところで、走行アドメーターがジャスト ”58000Km” になったのだ。ほぼ60000Km。
これは、私にとっては、車の買い替え目安の距離である。
私のこれまで経験では、70000Kmを乗ったものはない。
やはり、そろそろ買い替え時期なのかな…と考えていた。
UP!のコンディションには何の問題もない。
昨年の3月に長距離運転(旅行)があったので、その際、タイヤは新調した。
ガソリンスタンドの店員さんに「あちこちにヒビが入っているので、そろそろ頃合いですね」と言われたのがきっかけ。
タイヤ交換の際に、1年間のパンク保険に入るのが流行っている、とイエローハットのお兄さんに言われた。
まあ、ビジネストークだろうと思い、最初は無視していたのであるが、あまりにしつこく、最終的には「半額にします」とまで言うので勢いで加入してしまった。
ほぼ1年経過したが、予想通りパンクなどしなかった。
そもそも、40年近い運転経験で、パンクは3度しかない。10年に1度くらいと言うこと。保険は無駄だ。
タイヤ自体は今でも綺麗で元気だ。
心持ち、グリップが良いような気もする(カーブで滑らなくなった)。
UP!は、昨年10月に、7年目の車検を通している。その際、買い換えようか、とも考えたが、結局は乗り続けている。車検費用は約13万円。いつも通りの水準だ。
正規ディーラーにこだわらなければ、もう少し安く済むのかもしれないが、例のミッショントラブルの経緯もあり、いつものVW営業所に任せている。
これも1種の”保険”であろう。
やはり、この車は良い。
・小さいが故に取り回しがし易い。これが1番の利点。これに尽きる。
・剛性が高いので高速でも安定しており運転し易い。120Km/hも楽勝。
・実用燃費は、普段乗りで14Km〜17Km。高速は100Km/hベースで20Km/ℓ。80Kmであれば25〜26Km/ℓ。
・中は狭いが、後席シートを倒せば相当量の荷物が積める。
今更、国産のハイブリッドカーに興味はない。
とことん、これを乗り尽くそうかな…と最近は思う。
で、あれば、次回の車検(9年目)では、タイミングベルトと点火プラグ、エアフィルターくらいは交換すべきだろうな、と思う。
この車は、移動の ”道具” としては逸品である。
暖かい札幌
およそ5年ぶりに、日本を縦断している。
昨年の冬・年末から、年明けにかけて、九州・四国・北海道を仕事で訪れた。
今回はツアー最終の地、札幌である。
おそらく、仕事で訪問するのはこれが最後になる…。
以前から、大好きな場所だ。
今年は北国においても雪が少ないとは聞いていたが、札幌に着いてみて驚いた。
市街地に雪があまり無いのだ。
いつもであれば、この時期、此処にいると顔に当たる空気が痛いほどなのに、今回はそんなこともない。
もう、何回も此処にはきた事があるが、こんなことは初めて。
全く、雪がないわけでは無い。しかし、大通公園の状況を見ていると、雪祭りどころでは無いことは確かに分かった。それほど、異常に雪が無い!
本当に驚いた。
さて、今回、余裕をもって移動するために、羽田は11:30発の便を選んだ。
当日、若干、出発が遅れたが、それでも千歳着は13:20頃。
札幌には14:00過ぎには到着したので、遅めの昼食をとった。
知人お勧めのラーメン屋である。初めて行った。
大変に美味しかった。
やはり、私は札幌では味噌ラーメンを食べる。なんだかんだあるが、やっぱり少し辛めの味噌が大好き。
仕事を終えて、ススキノで知人たちを交えて夕食をとったが、やはりこの地の食べ物は美味しい。
この時期、北海道は厳しい気候であるが、最高の土地でもある。
久し振りにススキノで飲んだが、お姉さんは皆、綺麗だ。
此処は日本でも有数の美人の産地でもある。
本当に素晴らしい。
相鉄・JR直通線の秘密
「横浜の真ん中と東京の真ん中をつなぐ」
この印象的なキャッチコピーが相鉄線(相模鉄道)「横浜駅」に掲げられたのはいつ頃からだったか…
2019年11月30日、いよいよ相鉄・JR直通線が開通した。
相鉄にとっては、悲願の東京乗り入れ、とのこと。この辺りの事業の背景・経緯・詳細は専門家・マニアが詳しく述べているので省略。
私としては、年末少しだけ話題になったこの新路線の ”ヒ・ミ・ツ” について触れておく。
当たり前であるが、利用者は皆内容は知っている。
今後、この路線を使ってみようかな、と思っている人。
近い将来、相鉄沿線に住んでみようかな、と考えている人。
とにかく、本件に興味があるマニアの方。
これらの人向けにTIPSを掲載しておく。
この新路線の特色・メリット・デメリットは以下の通り。
・海老名から乗り換えなしで渋谷・新宿、大宮まで行ける。
・ネイビーブルーのかっこいい新型車両が走る。
・しかし、埼京線の車両も走る!これには沿線民もビックリ!
・相鉄/JRの接点となる羽沢横浜国大駅では、相鉄・JR双方の車両関係者(運転手・車掌等)を見ることができる。
・新型車両には、防犯カメラがついている。
・湘南台からは、二俣川駅で快速・急行が接続する。同じホームでスムーズに乗り換え。
・東京圏までの所要・乗車時間は、実は横浜経由とあまり変わらない。
・運賃は高い!(工事費を転嫁している)
・羽沢横浜国大駅を新設。西谷駅からは地下トンネルを通って、既存の貨物線駅と接続している。
・羽沢横浜国大駅から先は、貨物の鶴見線に合流する。鶴見神社辺りで貨物線に合流する。湘南新宿ラインとは若干異なる風景を見ながら走る(鶴見以降は、湘南ライナーと同じ線路を武蔵小杉まで走る)。
・羽沢横浜国大から先、6分間弱はずっとトンネル。
・大崎駅では、埼京線と待ち合わせ。接続しているみたい。
・朝、上り方面は混んでいるが、夕方、下りは空いている。ほぼ座れる。
・二俣川駅で先頭に並べば、朝でも確実に座って渋谷・新宿まで行ける。
・あの忌まわしい武蔵小杉から乗ってくる人が意外と少ない。新宿以遠に通勤する人が多いのかな(湘南新宿ラインでないとダメな人が多い?)…
・羽沢横浜国大駅で乗降する人はあまりいない。ほぼ大学関係者であることが確実。
・羽沢横浜国大駅と言っているが、横浜国大には遠い。ここは羽沢だ。
・西谷駅、二俣川駅で、急行・快速・各駅停車と細かく接続している巧妙なダイヤ構成。
・一方、1路線の遅れが全体に影響を及ぼす(前からそうであるが)。
・渋谷/西谷方面から羽沢横浜国大駅には、昼間は30分に1本しか電車は来ない。
・だから、人身事故が埼京線/宇都宮線/高崎線で起きれば、糞詰まりになり30分に1本すら電車は来ない(陸の孤島になる)。
・西谷/二俣川駅での待ち合わせがダイヤのボトルネックにならないよう、直通線は平気で”間引き”される。来るべき電車がキャンセルされ来ない…こと、しばしば。
・よって、駅で30分待つのは当たり前。
・振替輸送は、20分程度の遅れでは実施されない。
・だから、早く帰りたければ、自腹で横浜経由の路線に乗るしかない(鶴見〜横浜〜西谷の負担額:346円)。
・理不尽であるが、人身事故があった際、直通線が来るのか/来ないのか、JR・相鉄共に利用者に細やかな情報を利用者に提供する訳ではない。ほぼ、放ったらかし。
・でも空いている…
相鉄は、2022年には羽沢横浜国大駅を経由し、新横浜、新日吉、武蔵小杉を通って渋谷・目黒へとつながる新路線を建設中だ。
沿線に住む人たちにとっての真のメリットは、こちらかもしれない。
特に、二俣川と新横浜を結ぶ路線は、大きな時間短縮を実現する。
地図を見ればわかるが、相鉄二俣川駅〜横浜〜JR新横浜って、ものすごい遠回りなのだ。
10分足らずで、二俣川から新横浜:新幹線へのアクセスできる効果は絶大だ。
一方、湘南台〜慶應大学湘南藤沢キャンパス(SFC)への延伸も現実として動き始めているようだ(藤沢市は調査費を年度予算化し、地域へのヒアリングを始めている)。
横浜の田舎道を走る相模鉄道。
東日本大震災の日も、その日の間に復旧・運行を再開したと聞く。地元の方々には、とても愛されている鉄道。
しばらく注目が必要だ。
road to kamakura
1333年5月7日、遂に足利尊氏は丹波国篠村から陣を動かした。
鎌倉の北条家を攻撃するためである。
これに呼応し、新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉市内に突入したのは5月21日とのこと。
一瞬、磯から潮が引いた機会に、あの岸壁を回り込んで進軍したらしい。
これに先立ち、彼は黄金の太刀を海に投げ入れ龍神に祈願したと、地元には伝承されている。
「なげ入れしつるぎの光あらはれて千尋の海も陸となりぬる」
と、稲村ヶ崎の歌碑にある。
この逸話の背景には、鎌倉が三方を山に囲まれ正面には海がある、という防御するには打って付けの地形であったことが挙げられる。この地を幕府の拠点としたのは頼朝の達観である。
彼は自然が形成した立地を開発・活用し要塞とした。その跡形の一つが「切通」(きりどおし)である。
鎌倉には7つの切通がある。
亀ケ谷坂(かめがやつざか)
化粧坂(けはいざか)
巨福呂坂(こぶくろざか)
大仏切通
名越(なごえ)切通
朝夷名(あさいな)切通
である。
どれも、鎌倉から大船、藤沢、京都、三浦、六浦方面へ、人や物資を行き来させるために山を切り開いて道としたものだ。
鎌倉七口と名付けられている。
この中の名越切通は、海沿いからではなく、小町から山を超えて直接逗子へ通ずることができる道だ。
昨年の秋、名越に行く機会があった。
↑
大町口からひたすら山道を登る…
今は、海岸沿いの134号線が整備されているので、敢えてこの道を選ぶ人はいない。
しかし、地元のピクニックコースとしてはそれなりに有名。
実際に歩いてみると、結構な難所である。
昨年の台風19号の影響で、道のあちこちで倒木があったが、散策するのに問題はない。
さて、大町口から30分程度、名越切通を越えると崖を切り拓いた遺構が見えてくる。
「まんだら堂やぐら群」だ。
やぐら群の中には、五輪塔と呼ばれる供養塔がおかれている。
5つの石を重ねたものであるが、下から地輪・水輪・火輪・風輪・空輪と呼ばれており自然界の5大要素を示すとのこと。
大変厳粛、壮大な遺構であるが、いつ・誰が作ったものか分かっていないらしい。鎌倉にまつわる謎の一つ。
「まんだら」(曼陀羅)と呼ばれていても、特段、仏教色を感じさせるわけではない。
しかし、使われた時期から考慮して、鎌倉時代の寺社関係者が造営したことは間違いないであろう。
ここは、いつでも見学できるわけではない。
毎年、4月と10月の一定期間しか公開されない。
私は、昨年秋、妻から誘われ鎌倉に行った際に足を伸ばした。
これだけの大規模な遺跡は、大変珍しいとのこと。
鎌倉観光の一環として、是非お勧めしたい。
まんだら堂辺りの地名は「お猿畠」と呼ばれている。
これは、鎌倉を追われた日蓮上人が、この付近で3匹の白猿に助けられたという伝承に因むらしい。
ここにも日蓮の足跡を見ることができる…
年明け
2020年が明けた。
年初から、好天が続いている。穏やかな天気と同様、平和な1年であって欲しい。
初詣も早々に済ませてきた。
例年通り寒川神社に行ってきたのであるが、周辺駐車場が一斉に値上げしていたのに些か驚いた。
1000円→1500円。
一斉にである。
別にグダグダ言うつもりは無いが、これ、誰が取り仕切り、談合しているのだろう。
マーケティングが物言う世界であれば通用しないであろう使用料の大規模変更。神も仏もないということか…。年初から相当に興ざめした。
ともあれ、いい年を迎えましょう。
私のおみくじは何と ”大吉” 。
”大吉”は以前、いつ引いたか記憶もない。
「調子にのるな」とも記されていた。
肝に銘じたい。
私にとっては、2020年は大きな節目の年でもある。
色々な感慨を持ちながら過ごす1年になる。
熱情のオルガナイザー
1274年10月、玄界灘に浮かぶ対馬、壱岐の沖合に大船団が現れた。その数、大小をあわせ凡そ1000隻、兵士25000人。
軍団はあっという間に対馬・壱岐を征服・占領し、住民を虐殺、博多湾に迫った。
この戦闘は、鉄砲をはじめとする新鋭兵器を有する元軍の圧倒的勝利であったが、偶然にも玄界灘を襲った暴風雨により終結することとなった。
元軍の溺死者は13000人を超えたと「高麗史」には記されているそうだ。
この後、1281年1月に元軍はリベンジに来る(結果はご存知の通り)。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いて凡そ90年。日本は外国からの本格的、かつ大規模な攻撃・侵略を受けるという未曾有の国家的危機を迎えていた。
この侵攻に対し鎌倉武士は太刀打ちできなかった…。
結果として玄界灘の自然現象が国家の危機を救うことになったが、これを契機とした「神風」という迷信は、約6世紀後、この国の人民に耐え難い苦難を強いることになる。
文永の役を遡ること14年前。
この国難を予言したものがいた。
日蓮である。
日蓮の生まれは、安房小湊。12歳で出家し各地で修業を重ね、法華・真言の両教を極めたという。
当時の著名な僧侶が京都を拠点としたのに対し、彼は鎌倉を本拠とした。記録によると1254年頃から小町で辻説法を行ったとのこと。
建長寺開山は1253年というご時世である。
時の権力者、執権北条時頼が(のちに)鎌倉五山一位となる臨済宗総本山の禅寺を建設したばかりの頃に、彼は「法華経こそが真実の仏説である」と公言した。
「南無妙法蓮華経」
彼は、乱立する幾多の仏教宗派をたった7文字の題目に集約・統合した。そして、激しい言葉で他の宗派を攻撃した。
日蓮の発言は、過激かつ刺激的であった。
「法華経を無視する念仏教は邪法。禅は悪魔の法である」
「私は日本国の棟梁。私を殺すことは日本国の柱を倒すことだ」
幕府の無策を公然と批判し公開討論を求めたこともあったという。
強烈な言葉で他宗折伏を続けた彼は、仏教界・武家社会から相当疎まれたようだ。
しかし、彼のそれはスタンドプレーではなかった。
彼の真意は ”庶民の救済” にあった。
1257年8月、鎌倉を大地震が襲った。この前後、天災地変が続く。人々の困窮は限度を超えていたようだ。
1260年7月16日、「立正安国論」を前執権である得宗:北条時頼に献上する。
一説によると、彼はかかる災難の原因と対策を実相寺(静岡)の経蔵で3年間考えた末、安国論として纏めたそうである。
内容もやはり過激だった。
・正法(法華経)を建立して国土を安穏にすべし
・邪法とは法然(源空)の念仏宗のこと。邪法を原因とする7難の一部は既に起きている
・5難は、地震、疫病、暴風雨、火災、旱魃(かんばつ)である。
・私が願うことは、個人の救済、社会の救済
・穢れた国土を楽土化するために、皆が悟りを開くよう精進すべき
・もし法華経に帰依しないと、あと2難、自界叛逆難、他国侵逼難が来るぞ
自界叛逆難とは内乱、他国侵逼難とは他国による侵略である。
この建白書は、彼の意に反し、幕府の大ひんしゅくを買う。
彼は終生、権力から命を狙われることになる。このあと、彼が被った災難を「4大法難」と呼ぶそうだ。
その1。松葉谷草庵の焼き討ち。安国論献上の40日後。
安国論に反発する何者からか命を狙われ焼き討ちにあう。今の妙法寺のある辺りに彼の草庵があったそうだ。幸い彼は難を逃れ、千葉県中山の法華経寺にかくまわれる。
翌年、鎌倉に戻った彼は訴訟を受けていたことから即逮捕。伊豆(伊東)に幽閉となる。輸送の途中、七里ヶ浜で首を打たれそうになるが、その際、奇跡(何があったかは不明)が起こり命拾いをする。
伊東への流罪は1年9ヶ月。これを伊豆法難(その2)という。
その3。小松原の法難。
1264年、刑を許され安房小湊に帰郷。父の墓参りをし母を見舞った日蓮であったが、ここで襲撃を受ける。
天津の城主、工藤氏の世話になっていたようであるが、工藤主従、弟子たちの多くが斬り殺された。日蓮自身も眉間に傷を負ったようだがなんとか生きながらえた。
日蓮はこれにめげずに房総の地で布教を続ける。
この頃、蒙古の使者が繰り返し幕府を訪れる。
それを知った日蓮は、他国侵逼難の予言的中を恐れ、時の執権や関係者に立正安国を説く手紙を送った。
返事は無かった…。
いや、この手紙を逆手に取られ鎌倉の評定所に召喚されてしまう。
幕府は、日蓮の弟子達260名を逮捕するとともに、松葉谷草庵を襲ってそこを制圧。日蓮を拘束した。
その後、日蓮は鎌倉の大路(八幡宮周辺)を引き回わされ、江ノ島の側、龍口寺付近で斬首されることとなった。常栄寺で尼僧が馬上の日蓮にぼた餅を献上したのはこの時のエピソードとのこと。
絶体絶命である。
しかし、仔細は不明であるが何故か日蓮はここで首をはねられることなく、佐渡に流されることになった。
これを竜口法難という。
佐渡に幽閉中の1272年2月、北条時輔の乱が起きる。自界叛逆難の予言は的中した。
人々には、それが他国侵逼難に思えた。
周りの人達の日蓮を見る眼が変わった。
同年、日蓮は赦免される。
一旦は鎌倉に戻るが、程なくその地を去り、身延久遠寺に入山。
西谷に草庵を構えて以降、9年間、一歩もそこを出なかったという。
弟子、六老僧に後を託し1289年入滅。
これが、熱情溢れるオルガナイザー、日蓮上人の生涯である。
鎌倉を散歩していると日蓮上人を所縁の場所をいくつも見ることができる。
鎌倉の小町に住む人々の幸せを常に願った日蓮。
今も、これからも鎌倉の人達に愛され続けるであろう。
面影を見たければ、ぜひ鎌倉にどうぞ…。
法性寺
妙本寺の竜
鎌倉ビール
鎌倉に来たらやっぱりこれ
再起動
来年から再開します。
旅の行方
SNSが賑やかだ。色々と…。
インターネットの普及により、誰もが自分の意見を世界に発信できるようになったことは本当に素晴らしい。
技術革新。
世界の誰かと、望んだ時に、望んだ方向でコミュニケーションを試みることができる。
本来、私たちは、もう一人ではない、はずだった。
「ネットは広大だわ…」
草薙素子はそう言った。
それが今、現実世界となっている。
AIがネットを闊歩する時代は、もうすぐそこに来ている。
しかし、SNSのネガティブな側面も私たちは十分過ぎるほどに自覚している。
他人への悪意ある言葉の攻撃、タチの悪い嘘、誹謗中傷、果ては脅迫。
匿名であることをいいことに、やりたい放題、悪口雑言を繰り返す頭のおかしい輩が少なからずいるようだ。
先日、「はるかぜ」ちゃんのブログを読んで涙が出た。
誰だ?彼女をあそこまで追い込んだのは。
彼女は何もおかしなことは言っていない。間違っていない。
ネットの中で、大人も子供もあるものか。
芸能人も民間人も発言の自由はある。
運営側の定めるポリシーに反しない限り、自己主張することは許される。それがルールだ。運営がそう決めているのだ。
なのに、彼女の自由意志を踏みにじった奴らがいる。
その中には、いい年こいた大人も相当数いるはずだ。
ネットオタクのバカはともかく、身に覚えのある大人たちは強く反省すべきだ。
匿名であることを傘に、一体何やってんだ。恥を知れ。
とにかく、この一件でSNSに群がるゴミ野郎にほとほと呆れ返った。
彼女には、はるかぜちゃんには、これからも自分の思うように夢を追って欲しい。
私は心の中で応援している。
「あなたは間違っていない」
最近、ツイッターやインスタなどで注目を浴びたいがために、意味不明の行動をするバカが増えて来ているように見える。
たまたま、結果が面白いからアクセス数が増える仕掛けなのに、アクセス数を取るために、わざわざ仕掛けを仕込むという自演・ヤラセが目立って来た。
何がホントでウソか分からなくなっている。
こうなると、ネットはまさに「便所の落書き」と同じ。
そこに、存在価値は僅かに残るが、そこに真理へ近ずくための道は、もうない。
薄汚い情報、ノイズ、ゴミ屑の山。
私は、ゴミを食べるほど情報に窮していない。
誰かとつながる…というネット最大の魅力というメリットより、ゴミを喰らって不愉快になる等、種々のデメリットの方が無視できなくなってきている。
当たり前であるが私は、ネットとの関わり度合いは、自分でそのレベルを決める。
私はスマホ(ネット)依存症ではない。
現に、月に1回はスマホを家に置き忘れて仕事場に行く(一般に、そんなことはあり得ないらしい)。
いつもネットを見ていないと、いてもたってもいられない、という人間ではない。
別に平気。
知りたいことは無限大だし、読みたい本は山ほどある。
ネットを使わずに知識を深める楽しさは知っている。
だって、私が大人になるまでネットは存在しなかったのだから。
そもそも、そんなもん、昭和には無かったのだ。
ケータイが無かった時代、恋人たちはどうやって心を通じ合ったのか?
手紙、だよ。
電子端末は必須ではない。
私は異常ではない。
私に言わせれば、皆がどうかしているのだ。
何がそんなに面白いの?
わかりません。
色々と思うところはあるが、要するにSNSはそろそろ潮時ではないか、ということ。
いずれ、SNSの自由度というものは社会的に抑制されていくものと思っている。
自分の正体がバレなければ何をしてもいい、という愚か者がこれだけ大量に出てくれば、運営側が事態を放っておける訳ないだろ。
まさか、某国のような個人情報や発信を国家が管理するようなことはないであろう。
しかし、SNSの(ある程度の)健全性を維持するために、AIを使ってでも発言を制約する時期はすぐにやって来る。
人間を使っての言葉狩りは、工数的・処理能力的に無理があるが、AIなら容易い。
いずれ、バカどもは、自らの行為ゆえに、そのバカさ加減を発揮する場を失うだろう。
そうすると、彼らは、自らの肥溜めのような腐った精神論のはけ口を、他に探し求めるようになる。
しかし、そんなものはこれからは無い。
精神的クズは、所詮、相手にされなくなる。リアルでもネットでもだ。
自業自得。同情なんてしない。自らの愚かさを恨め。
ネットは恐らく、今が一番自由だ。
これからは統制されていく。
何故?
言論を自由にしておくことの利得の問題。
デメリットが多ければ自ずと淘汰されるのがこの世の常。
国家が統制するのは問題であるが、運営側がやるのは今度は社会的要請・責務になる。
だって、色んな差別・偏見・暴力を放置しておいていい訳ないだろ。
社会の摂理だ。
人はそちらに向かう、と思う。
今、他人に対し言葉の暴力を行使している者たちは覚悟せよ。
しかし、それはお前たちが導いた終末世界だ。
そういう私も「はてブ」を何年もやっている。
ブログはそもそもは「日記」だ。
個人で何を書こうが自由のはず、だった。
しかし、見ず知らずの私に対して、内容について色々と非難の意見を口汚く飛ばして来る無礼者も中にはいる。
最近は「コメント」はクローズしている。
私は自分の思ったことを書いているだけで、評論は求めていない。
少しでも誰かの参考になる情報を話題に包含するよう意識はしてきたが、見る人によっては「上から目線」「自慢話」「マウント」になることもあるらしい。
知らねえよ。そんなこと…
じゃ、何、書けばいいんだよ。
そもそも、誰のために書くのだ?
これ、日記だぞ?
そう、潮時なのだよ。
私がこのブログを書く理由も、そろそろなくなって来ている。
所詮は日記。
いつ辞めるのも自由のはずだ。
旅の終わりは、此処かもしれない…
2018年を振り返って
年末なので私的に1年間を振り返ってみる。
10大ニユースという訳ではないが人生の備忘録として(「はてブ」自体が備忘録であるが)。
1.ハワイ旅行
31年ぶりのハワイ旅行ができた。
娘夫婦の結婚式兼新婚旅行だ。私と妻の願いを叶えてくれた娘夫婦に心から感謝したい。
やはりハワイは素晴らしい。
両家ファミリーでの旅行は一生の思い出になった。
ちょっとした事情で会社から寸志を頂いたので、それでカシオのG-SHOCK35周年モデルを購入(妻には海外でも使える電波時計が必要だからと説明)し、休暇をこの旅行に充当した。
たまたまであるが、タイミングに恵まれた。
妻は「絶対にもう1度行く」と言っている。よほどゴルフが楽しかったのか…
彼女は有言実行タイプだ…。どうする?どうなる?
2.TDL
随分と長らく行っていなかったのであるが、久しぶりにTDLに行った。
孫の誕生日祝いが名目。
そうでもなければ私は行かないだろう。並ぶのは大嫌い。
妻に確認したら13年ぶりじゃね?と言われた。そう言えば、以前は入場ゲートの前にホテルは無かったし、モノレールも走ってなかった。この10年でTDLも進化したと言うことだろう。
息子が良いことを言っていた。
「TDLは誰と来るかで楽しさは決まるんだよ」
確かにその通りで、娘夫婦が子供を連れて楽しそうに歩く姿を見て、私は満たされた気分だった。自分本位でなくとも夢の国は素晴らしい。
妻「ねっ、来て良かったでしょ」
私「うん。」
妻「幸せでしょ」
私「そだね〜」(流行語大賞)
因みに、息子の嫁は彼が言うに、TDLマイスターらしい。
3.暑い夏
何で最近の夏はこんなに暑いんだろう。地球温暖化の影響?なら、温暖化じゃなくて灼熱化じゃん。
いくら何でもこの暑さは異常だ。
東京オリンピックのことも心配であるが、それより自分の夏通勤が続けられかが問題だ。もうこんな気候、ついて行けません。
一方、暑気払いについてはブログにも書いたが「プレ金:銀座ライオン」はお勧め。
実はもう一つ夏に試したものがある。
ファミマのスイカアイス(商品名は忘れました)。
が、美味しくなかったです…。
4.企業不祥事
検査データの改ざんなど、世間を騒がせていた不祥事は、年末のカルロス・ゴーンの逮捕でトドメが刺された。
彼には大好きな日産を救ってもらった自動車ファンとしての恩義と経営者としてのリスペクトがある。結末を見守るしかない。
報道が事実であれば、彼は単なる金の亡者だ。
そんな結末は悲し過ぎる。
5.政治家と官僚の堕落
「もりかけ」…だけでは無い。
今や、公文書さえ偽造されている。政府広報は信用できない時代になった。では、何が信用できる?
自分で算定したものだけだ。
著しい不効率。
ウソで居直っても総理大臣を辞めなくてもいい国。
暴言を吐き続け、人格を蔑ろにしても副総理の座を追われない国。
道理を外れても出世できるなら、それに従う役人がいる国。
それを何ら咎めようとしない国会議員とかいわれる俗物達。
それを止められない私達…。
子供の頃から、政治家はずるいというイメージを持っていた。
大人、いやジジイになった今、それは現実となっていた。
とんでもないことだが、責任は私たち国民にもある。
6.災禍
豪雨、地震…。
今年は、自然災害が目立った印象だ。
しかし、振り返ってみると災害がなかった年って、無いのかもしれない。
いつも、何がしかの災禍がこの国にはある。
私たちがやるべきこと。
それは、備えと支え合い、だと思う。
自分だけは…と思うのは本当の愚か者だ。
7.若者たちの飛翔
サッカーW杯や冬期オリンピックでの若いアスリート達の活躍が目立った。もちろん、MLBの大谷君もだ。
この国の社会は、変えなくてはいけないシステム・制度が色々とある。その中には、本来一流の力を有するアスリート達の障壁となっているものも少なくないと思っている。
スポーツ先進国にはない、くだらない制約。
彼等は本当に立派だと思う。
こんなくだらんしがらみや、訳分からんルールだらけの環境で、あそこまでのパフォーマンスを出したのだ。
私たちジジイがやるべき事は賞賛以外にもある。
彼等のメンタリティを見習う事と制約を取り払う事だ。
8.退位
平成という元号が終わる。
が、時代の節目、とは私は思っていない。ひとつの時代が終わるとも思っていない。
2018年と2019年は連続している。
それを平成最後の云々といって、わざわざ大袈裟に話題作りにしたいのは、マスコミではないのか。
だが別にそれは構わない。
また、平成最後を名目に色んな勇気を出す事は大いに結構。想っていた人に告白なんていいんじゃない?大賛成。
ものごとには、勢いも必要。
個人が節目を活用することは今上天皇もお喜びになると想像する。
そう、そういうお人柄の王様を持っていることが私たちの誇り。
与党保守系の連中の元号に関連する一連の言い分は私には理解不能だ。
あいつらこそ、天皇を政治利用(私利)しているように私には思える。
国民に対し、現代日本の皇室のあり方を明確に実証してくれた尊い方。
終わるのは、その方の身分の置き方であって、時代が終わる訳ではない。
あの方の想いは続くのだ。
9.梅
「飛梅」を書いて以降、梅干しをよく食べている。
おそらく、これまでの人生で最も梅干しを食した1年だったと思う。本当に美味しい。
来年も小田原の梅林に行こうと妻を誘っているところだ。
ただ、妻からも医者からも「塩分取り過ぎ」と言われており、梅干しについては悩ましい限りだ。妻がつけている梅酒も気になるのに。
今年の健診で血圧の高さを指摘された。初めてのこと。
年齢もある。
しかし、食生活で「塩分高め」であった事は事実。
飲酒を含め、生活習慣を変えないといけないようだ。
年をくって、少しものごとが分かるようになったら、今後は自制の時期。
ああ、切ない…
10.家族
長男が入籍し、2人の子供が自立した。
親の役割の一定部分を終え、満足感と何か寂しい気分を味わった年だった。
我が家には嫁さんが加わった。
いつか、新たな一員を見せてくれると思う。
娘の結婚式は、入籍後1年と少し後になったが、一方で孫娘を伴った旅行は素晴らしいものだった。
新たな家族を迎え、ありがたい私生活を送っている、と自覚した年…。
あと、もう少し生きていたら、もっと新しい家族を迎えることが出来る。
それを励みに、元気よく生きていこうと思う。
全ての人にそれぞれの幸あれ。
市民革命の歴史
戦う者の歌が聞こえるか
鼓動があのドラムと響き合えば
新たに熱い生命がはじまる
明日が来たとき そうさ明日が
列に入れよ 我らの味方に
砦の向こうに明日がある
戦え それが自由への道
・・・
悔いはしないな たとえ倒れても
流す血潮が潤す祖国を
屍超えて開け明日のフランス
ミュージカル「レ・ミゼラブル」で合唱される名曲「The People's Song」(民衆の歌)の一節。世界的な大ヒット作を代表する感動的な楽曲である。
「屍超えて開け、明日のフランス」という歌詞が大変印象的で記憶に残る。
当初、この歌を聴いたとき、アンジョルラスやマリウス達がバリケードの中で一体誰と戦っているのか、私には分からなかった。その知識は無かった。恥ずかしながら。
少なくともフランス革命が舞台でないことは分かっていた。
最近、この国の情けない政治状況、社会情勢を見ていて、この名作の時代背景を知ることが、我々、日本人にとって重要な意味があることに気がついた。
この頃のフランス史を少しだけなぞってみたい。フランス国民が自由・市民権を勝ち得るまでの永い道のりの一端である…
ビクトル・ユゴーが「レ・ミゼラブル」を発表したのは1862年。これはフランス史ではナポレオン3世による第2帝政期であり、物語の舞台はそれより少し以前、所謂ウィーン体制下の1815年からはじまる(ジャンバルジャンの出獄と司教との出会い)。
1789年、バスティーユ牢獄の襲撃から始まったフランス革命は、議会による封建的特権の廃止と人権宣言の採択により一応の戦闘集結をみた。1791年には憲法が制定される。
それまで憲法制定を求める議会を武力弾圧していたのはルイ16世、これに反旗を翻したのは「第3身分」と呼ばれた人々である。
当時のフランスの「アンシャン・レジーム」と言われた社会は、第1〜3の身分制度から成っていた。
トップのルイ国王の下が第1身分の聖職者、約10万人、人口の0.4%。次が第2身分貴族、約40万人、1.6%。最下層が第3身分いわゆる平民、約2450万人、98%である。第1、2身分は特権階級で官職独占、土地所有権・年金支給資格を有するが免税。第3身分は営業の自由がなく参政権なし、しかし納税義務があった。
2%の特権階級が全ての権力を持ち社会を支配していた。
パリの市民が蜂起した理由は凶作によるパンの値上がりにある。パンを求めてヴェルサイユ宮殿に行進する主婦達の列は数千人を超える規模であったという。
「パンがなければケーキを食べれば良いじゃない」
本当にマリー・アントワネットがそう言ったのかは知らない。
しかし、現代日本ではジョークで使われるフレーズが、当時の特権階級の意識レベルと政治能力を強烈に揶揄している。
もちろん、このことは単なる引き金・きっかけであり、パリ市民達はそれまでの永きに渡る圧政・暴政・無策に耐えかねたのだった。
革命後の1792年9月20日、国民公会が招集され王政廃止と共和制の樹立が宣言される。
これにより、めでたく市民による革命は完結し、フランスは市民が議会を運営する立憲民主国家として変質を遂げた…のでは無かった。
その後、議会は急進派により牛耳られおかしな方向へ突進していく。
共和制の開始と王家の存続は別問題としていたはずが、ここに来てオーストリア王家との秘密書簡の存在(謀議?)をたてに、国民公会にてルイを裁くべしとの意見が明確に主張される。
「ルイの処刑なくば共和制は幻だ」
時間が経つに連れこの意見に議会は押され傾いていく。
1793年1月21日、議員投票における結果は、361票対360票というものだった。1票差!
ルイ16世は、ギロチンの露と消えた…
妻のマリー・アントワネットも10月16日に処刑される。
共和制は王家の廃止(処刑)により、めでたく正真正銘の純血民主政治体制に進化したかと言えばそうでもなかった。
物価の上昇は止まらない。社会不安はかえって増大し続けた。その結果、議会は急進改革的な勢力により独裁方向に傾く。
やがて「恐怖政治」が始まる。
1794年6月10日、国民公会にて「革命の敵を根絶するために裁判を迅速化させる法案」(プレリアル法)が可決される。
裁判における物的証拠は不要、犯罪刑は簡素化されギロチン(死刑)のみ。しかし、犯罪の範囲は恣意的に拡大された。この時に創設され、制度を維持・執行した組織が公安委員会、保安委員会、革命裁判所である。
このトンデモ法の犠牲者・対象者は、宣誓拒否聖職者、外国(恐らくオーストリアやプロシア)との密謀・共謀者、穀物の買占め業者、反乱参加者等であったらしい。
ギロチン直行は約17000人、監獄行きは約50万人であった(凄…)。
現代のフランス国民が国家・制度をあまり頼りにしないことがよく理解できる黒歴史である。
またこの時期は、イギリスがロシア・プロイセン・オーストリアと同盟を結びフランスに宣戦を行なっており、フランス革命には王政国家の露骨な干渉が行なわれていた。
この混乱期に颯爽と現れた軍事家・政治家がナポレオンである。
ナポレオンは政府を武力打倒し統領政府を樹立、ナポレオン法典を公布し皇帝の地位に就く(1804年)。ここにフランス革命は完全終結し「帝政」が始まる。
これは王政復古ではないと歴史上解釈されている。
人権宣言に謳われた法の下の平等や個人の思想や信仰の自由が法典に継承されていたからだ。ただ、ベートーベンはこれを共和制の否定と捉え、皇帝への「シンフォニー3番」の献呈を取り下げている。この辺り、フランス史は複雑だ。
その後のナポレオンの活躍は有名。
彼がセントヘレナ島に流れたのは1815年10月。従者は将軍・医者・秘書など15名であったという。
さて、邪魔者ナポレオンがいなくなって欧州王達は新たな社会秩序を模索する。もちろん、それは市民革命などではなく王政による国家運営である。
ウィーン会議は、1814年9月18日開催された。そして王族・貴族達は来る日も来る日も舞踏した。次の年の6月9日まで。
恥ずかしい内容で批判にさらされるこの会議であったが、考えてみれば欧州連合の素地は既にこの頃出来上がっていた訳であり、最初から王立連合国家を目指していれば世界大戦は避けることが出来ていたのかも知れない。
しかし、歴史に if はない。
ウィーン議定書の内容は、各国の領土線引きが種々なされているが、フランスにおいては、
①1792年当時の領土に戻す(ナポレオンの占領地を返還)、②旧王家の復活
が主なもの。
これは革命の否定、後戻りである。
時計の針は30年戻され、フランスで王政復古が実施された。
欧州諸国は、市民革命を警戒・抑制するため神聖同盟、四国同盟(後にフランスも参加し五国同盟)を締結する。これは、どこかの国で市民革命が勃発すれば各国が軍事介入しそれを抑えるという意味合いがあった。
立憲民主主義への道は遠い。
ルイ18世の即位により名門ブルボン王朝は復活した。しかし、王政は長くは続かない。
その後、王となったシャルル10世は貴族・教会偏向の旧態政治を進め、それに反発する議会を解散した。しかし総選挙に敗北すると選挙法改悪、事前検閲復活など、言論・出版統制の勅令を出した。
この暴挙にパリ市民は爆発、工場の閉鎖、労働者・学生による街頭デモを行った。これに対し軍隊が発砲、双方が交戦し流血の事態になる。
市民は街灯を破壊し夜の暗闇の中、軍隊への襲撃を繰り返した。
(この辺りの状況は「レ・ミゼラブル」公演を連想させる)
大規模な市街戦に発展したが、1830年7月29日、市民はパリを完全掌握しブルボン王朝は崩壊した。
この戦闘は「栄光の3日間」と言われ、欧州各国に自由主義運動として飛び火し、ウィーン体制を弱体化させる。
歴史はこれを「7月革命」と呼ぶ。絵画「民衆を率いる自由の女神」はこの革命を描いたものとのこと。
しかし、これで王政が終わった訳ではない。ルイ=フィリップ公の即位により王政は継続された。
フィリップ王は、神聖同盟を脱退しウィーン体制からの脱却を示したが、政策が露骨な銀行家・大資本家優遇のものであったため、労働者の支持を受けることはできなかったらしい。政治・社会は未だブルジョア階級に実質的に支配されていたのだ。
そして、お決まりの愚行、言論・出版の自由侵害、普通選挙を求める市民の声の圧殺、そのための政治集会の弾圧等、フィリップは過去の為政者達と同じ過ちを繰り返した。
やがて、1848年欧州に未曾有の事態が訪れる。
悪政にブチ切れたパリ市民のデモはやがて騒乱に発展、フィリップ王を退位に追い込み革命となる。この革命は「2月革命」と呼ばれる。
この革命は、欧州における民衆のそれまでの社会システム(王政)への不満を爆発させる起爆剤となり、ムーブメントはオーストリア、プロイセン、ハンガリーへと波及した。
やっぱり王政ではダメだ。社会主義こそが我々を救う道だと欧州の人々は考えたのだろうか。マルクスが共産党宣言を出したのはこの年の2月である。
フランスは、2月革命により共和制に再び戻る。ようやく自由選挙も実施される運びとなった。しかし、これで現代のフランス政治体制が出来上がった訳ではない。
この後も、ナポレオン3世による第2帝政(1832〜1870)→第3共和制(1875〜)を経て世界大戦を迎えている。それまでは長らく社会主義政権であったようだ。
話を「レ・ミゼラブル」に戻すとアンジョルラスやマリウス達によるバリケードでの戦いは1832年の政変以降の話のようだ。7月革命から2月革命の間とういう事だろうか。
彼らは、「自由」を求めて王政と戦っていたのだった。
『悔いはしないな たとえ倒れても 流す血潮が潤す祖国を 屍超えて開け明日のフランス…』
何という市民革命の永い歴史であろうか。
何という民衆の力、自由への行動力。
自分たちの権利を勝ち取るために、社会変革の原動力を全て国民の血で贖ってきたとも受け止められる。
彼等が求めたものは、議会による国政、そのための普通選挙の実施、それを維持するための言論自由だ。
そこは極めて一貫している。
彼らの歴史の前では、我々日本人は幼稚だ。
デモをやらない。
ストもやらない(何とやったら民衆が文句を言う)。
休みを取らずに働き続ける。搾取されっぱなし。
嫌なら憲法に保証されているように自由に職業を選べばいいのに辞められないと言う。
挙句、命を落とす労働者がいる。
言論の自由に当事者(マスコミ)が興味ない。サロンを作って政府広報をやっている。
国民も新聞もお上が間違っても文句は言わない(いや、金(株価)のために何でも支持している)。
一例…
・立憲主義を政府最高責任者(首相)が知らない(無知が罪ではない)。
・議会を勝手に自分の都合(論理的理由なし)で解散する。
・国会で嘘をつく(やってません、会ってません、辞めます、丁寧にします、寄り添います、以下キリがない)
・国民との約束を守らない(新たな判断と詭弁を垂れる)
そして、国民の半数は選挙に参加しない。
世論調査結果の1/3は「わからない」だ。
今の我々は、社会を変えるための努力を全くできていない。
改めて考えてみる。
私たちは、政治に無関心である事がクールと捉え、法治国家だから権利は保証されると盲信することを「未熟な思考」として、認識する必要があるのではないか。
欧州の歴史を踏まえた上で、この国の政治・社会情勢を正常に判断できているのだろうか?
今、フランスの彼の地では市民によるデモが激しく行われている。
燃料増税への反発が直接原因と言われているが、マクロン大統領は
「(軽油やガソリンを買うお金がなければ)電気自動車を買えばいい」
旨のことを言ったそうだ。
マクロン氏は、自国の革命で散ったハプスブルグ家出身の王妃の最後を学校で習わなかったらしい。
彼も我々も、民衆を冷笑している場合ではないのだよ。