オリオン座が沈む窓

azuyuz captain's log〜”ゆず”艦長の航海日誌

誰が彼らを裁くのか

 安保法案の中央公聴会は、9月15日に開かれるそうだ。

 翌日には横浜で地方公聴会もあると聞く。

 この日程は、法案のシルバーウィーク前の採決を意識したものだ。

 公聴会を開かねば国会での採決は行えない。これは、政府・国会の意図とは関係のない予め決められた「手続き」である。つまり、「強行採決」は行われる。

 日本は戦後70年の節目に大きな方向転換を行うこととなる。

 私達にとって、これは、ある意味で「戦後」が終わることを意味するのかも知れない。

 忘れてしまってよいものなのであれば、私はそうすることにする。

 私は昭和にあった戦争には参加していない。他国の人を殺してはいない。

 また、「開戦」に関する意思決定や当時の世論誘導、情報操作にも加担していない。

 「私には関係のないことだ」

 そう思ってしまって良いのであれば、そうする。

 日本民族として、贖罪の意識から解放されるのだ。こんな嬉しいことは無い。

 

 今回の1件で改めて理解出来たことが幾つかある。

 かつての「自民党」は、もう無い。死んでいる、ということ。

 先日の総裁選は、無投票で現職の再選が決まった。

 これは自民党の自浄能力の喪失を意味する。

 自民党の派閥の領袖達は、「反安保」を掲げての現政権との決戦に背を向け、「現状維持」を選択した。政策の対案提示による直接対決を避け、3年後を見据えた戦略へと舵を切ったのだ。

 自民党の全派閥は、間接的に「ABE安保」を支持した。

 私達国民は、自民党から見放されたのだ。

 これでもう、安保法案に反対する/出来る派閥・与党議員はいなくなった。

 最後の最後の「望み」は、一つだけ。

 いずれ野党から提出される内閣不信任決議案に、与党側から造反者がでる ”可能性” だ。

 しかし、これはあくまでも ”可能性” である。期待は極めて薄く、絶望的だ。

 このような政権運営を止められない政党に「自由」「民主」を名乗る資格は無い。

 

 現総理も副総理も歴史に名を残す政治家の末裔である。

 だからか、自分たちが「選ばれた人間である」あるいは「これは私にこそ与えられた天命・使命である」との勘違いをしている節がある。

 また「自分は特別」との選民思想を持っているように感じ取れる。

 この手の輩が誤ったリーダーシップをとることは危険だ。

 勘違いの「万能感」から、とんでもない決断を下す場合がある。今回の1件は、彼らの「どうでもよい血統」がもたらした悲劇だ。

 あの2人は、自分たちの家系に「誇り」を持っているようであるが、近い将来「呪われた血統」と呼ばれることになるかも知れない。

 ABEのUSAでの家系にまつわる演説部分、AHOの「俺は爺ちゃんから保守本流を学んできたんだ」という発言…

 私はおぞましい。熱意・情熱・理念ではなく、”血” で政治を行う人間が…

 

 「憲法解釈の最高権威は最高裁」と与党・政府は言った。

 そうであれば、最高裁はその自覚を持たねばならない。

 まずは「解釈改憲」ではなく「一票の格差是正」から始めて欲しい。

 現国会議員は「違憲状態」で選出されている。

 速やかに「選挙無効」を表明し、彼らの地位を剥奪してほしい。

 彼らは憲法を無視するが、何故か最高裁は尊重するらしい。支離滅裂であるが、この際、その根拠などどうでも良い。最高裁は、彼らに「国会審議を行なう資格はない」と通告してほしい。

 

 自称「平和の党」の執行部は、未だ悟りの境地には到達出来ていないようだ。

 彼らの教義に従えば、執行部の面々は地獄に堕ちるであろう。

 涅槃で誰かが待ってくれていると思うのは間違いだ。

 彼らを裁くのは、最高裁でも歴史でもない。

 閻魔だ。

 

 次に来る参議院議員選挙とその後の総選挙において、私達は私達の権利を行使して、彼らを裁かねばならない。

 裁きの中には「最高裁の国民審査」も含まれる。

 誰かが彼らを裁く必要がある。

 世の中に偏在する不遜をそのままにはできない。

粗悪品の設計思想

 「日本型軽減税率制度」は、今、タコ殴りの状態である。

 私も聞いた当初は、その制度設計の陳腐さに驚いた。

 大手マスコミ、新聞各社の評論も、おおよそ「Boo〜」の様だ。

 日本の官僚はここまでレベルが下がってしまったのか、と嘆く評論家もいる。

 そのような中で、小田嶋隆氏のブログは秀逸・痛快だった。

    ↓

 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/091000010/

 

 また、高橋洋一氏のオピニオン(考察)も ”さすが” との感がある。

    ↓

 http://diamond.jp/articles/-/78228

 この他にも、様々な方々が様々な立場で意見・所感を述べられている。

 

 何故、財務省の自称 ”優秀” な役人達は、このような「粗悪品」を、たたき台とは言え、世に問うたのであろうか。

 消費税の引き上げの議論をするのであるから、軽減税率についても「辛口」の意見・評論が寄せられそうなことは誰だって分かっている筈。

 その割には、幾らなんでも「何なんだ、これは!」という内容である。

 たがだか、2%分の消費税分を免除するのに、この制度の大袈裟な構えは一体何なのであろうか…

 マイナンバーは、これまで種々の議論を経てようやく実現の芽を見た政府の重要政策であるにもかかわらず、今回の一件に引っ張りだされたことで、注目のヒール役を担わされることになった。

 そもそも「マイナンバー」は、USAで言う「社会保障番号制度導入」がそもそもの目的・役割であり、”国家的ポイント制度”に利用されることなど想定外の筈。

 どさくさに紛れての方便であろうが、幾らなんでも「筋」が悪過ぎる。

 私も正直、「これを考案したヤツは本当のバカではないか」と当初考えていた。

 しかし、先に引用した高橋氏の意見を読んでみて、ふと違う考えが頭に浮かんだ。

 年間、たかだか4000円の減税を受けるために、毎日マイナンバーカードを持参し提示

することは紛れもなくアホらしいことだ。そんなこと、バカバカしくてやってられない。非現実的な提案だ。そんなこと誰だって分かることであり、これについて財務省が本気とは思えない。

 また、この方式実現のために「軽減ポイント蓄積センター」を設立することも無駄の極み。

 今時「天下り先」欲しさに財務省が、国民の非難を承知の上でこのような能天気なアイデアを平然と出すとは到底考え辛い。

 では、この試案にはどのような思惑が込められているのであろうか…

 

 この方式、たかだか2%の免税を受ける目的であれば、個人で年間4000円の減税を確保するのであれば、極めてアホらしい方法論である。8%→10%の税率変更に伴う激変緩和が目的であれば、全くもって「阿呆」の考えることだ。

 

 しかし…

 

 例えば、2年毎に10%の消費税を20%に引き上げる場合の「軽減税率」実現方式として捉えてみれば如何か?

 例えば、10%の消費税率を10年間かけて20%に引き上げる場合の「軽減税率」の実現方法と捉えるのだ。

 これは案外「良い」かも知れない。

 

 マイナンバーカード読み取り端末の設置は、10年間程度のレベルで評価すれば妥当な設備投資と見ることはできないか。「軽減ポイント蓄積センター」は、将来の20%半ばの消費税率実現に向けては必要な機関ではないのか。

 上限設定(減税金額上限)を柔軟に変更出来る現在の素案は、税収確保の調整機能の面でメリットは大きい。

 財務省官僚の真の目的は「消費税の大幅引き上げに向けての調整機能」の導入ではないのだろうか。

 もし、それが「真の狙い」であれば、10〜20年間を見据えた制度設計をしているのであり、必ずしも粗悪品とは言えないかも知れない。

 

 政府の真意は不明だ。

 しかし、私達が単に「バッカじゃねえの」と批判するには、今回の財務省提案は余りにストーリーが単純過ぎる。

 関係者は単なるバカなのであろうか、それとも深慮遠謀の結果なのか…

 私には、まだ分からない。

 しかし、この話、的を射ていたとしても、財務省公明党、国民には切り出せないとは思う。

 

 

社会はたるんでいない

 東京オリンピックエンブレムは、ついに採用が白紙撤回された。

 メインスタンジアムである国立競技場に続き、イベントの重要項目に大きなケチがついてしまった。

 当然、あちらこちらから、選考過程について批判がでている。

 密室でセンスのかけらもないおっさんたちが勝手に決めるからだ、と元TVキャスターの長谷川氏はブログで発言している。

 確かにそうかもしれない。

 

 本件の選考過程に関連して、経済同友会の小林代表幹事は「社会全体がたるんでいるんじゃないか」との苦言を呈している。

 彼が何を根拠に「社会全体のたるみ」を指摘しているのかは不明である。

 しかし、特定関係者や組織・機構ではなく、日本全体がオリンピック開催に関連し「たるんでいる」と発言している。

 

 これに「カチン」ときたのは私だけではあるまい。

 「たるんでいる」のは、国立競技場の問題を見ても明らかなように、政府・役所・組織委員会の関係者である。

 一般国民は、今回の一件については問題指摘について逆に「貢献」をしている。

 そもそも、佐野氏のデザインにはオリンピックエンブレムの他にも模倣がある、との具体的な指摘をしたのは「国民」だ。インターネットを通じて。

 例のトートバッグを始めとして、ネチズンから指摘された「パクリ」の具体例は数多い。

 彼ら(ネチズン)は、具体的な証拠を示して指摘・警告しているのであり、関係者のおっさんたちの言い訳よりも、はるかに現実的な対応だったと言える。

 経済同友会は発言を撤回・修正すべきであろう。

 「たるんでいる」のは社会ではない。

 本件に関連し、インターネット社会は「たるみ」ではなく、「健全性」を示したのだ、と言える。

 モワッとしたものに責任を求める経済同友会の姿勢こそが問題だと思う。

 ある意味、日本の企業経営者の体質を示した発言と受け取れる。

  

 今回のエンブレム騒動を踏まえると、デザイン案を国民の投票で決めることも一案かもしれないと思う。

 少なくとも投票者からは「これ、XXに似てね?」とのパクリ指摘は頂ける。

 我々はデザインに関しては素人であるが、密室のおっさん達よりはマシかも知れない。

 

 今回の騒ぎを通じて、素人の視点が偏狭な専門性を上回ることもある、との一例が示されたのであり、これは痛快なことでもあり、また不安なことでもある。

 今後、具体的な大会運営について検討すべきことは山ほどある。

 開会式や聖火リレーのプラン、各種競技の会場設営、選出村の運営、来訪者の受け入れ態勢等々…

 

 プロジェクト遂行にあたり、重要なことは責任と体制を明確にすることだ。そして何よりも、強いリーダーシップ。

 2020年まであと5年。

 東京オリンピック・・・、本当に大丈夫なのか。

サイタサイタ コスモスサイタ

 某知事の「女の子には、sin、cos、tanではなく、花の名前を教えた方が人生の選択肢が広がる」との発言は、あっという間に日本中を駆け巡った。

 当然、彼は今、強い批判を受けている。

 恐らく、彼はこの発言により、数学関係者、設計者(デザイナー)、エンジニアだけでなく、正三角形や二等辺三角形等、全ての三角形の皆さんから嫌われたことだろう。

 加えて、三角形一族の親戚の台形や、平行四辺形からも愛想をつかされたと推測する。

 この発言を涼しい顔で見ていられるのは、直接の関係が薄いと思われる、円・楕円一族の皆さんだけだろう。

 2次元の世界で、三角形から嫌われては生きてはいけない。三角形は全ての図形の基本形だ。某知事の、あのどうでもよい顔だって、複数の三角形に分割することが可能なのだ。

 

 しかし、彼の言うことにも一理ある・・・。

 sin、cos、tanって、確かに日常生活ではほぼ使わない。

 キャベツを切るのに、三角関数を使う人はあまりいないと思う。歩いて道を曲がる時も同様だ。

 「サイタサイタ、コスモスサイタ」

 sin(A+B) = sinAcosB + cosAsinB (加法定理)はそうやって暗記した。 

 しかし、電卓が存在する現在、この公式を使うことはまずない。

 

 この間、頭のすぐ上をF-16が大音響をたてて飛び去った。

 見上げたときのF-16は、私の手のひらより少し小さいくらいの大きさだった(に見えた)。

 一体、どれくらいの高度で飛ぶと、こんなに近くに見えるのだろうか、とその時疑問に思った。

 

 私とF-16の距離は実際には、どれくらいだったのか?

 これは、三角関数を使えば計算出来る。

 F−16の全長は10m。私の腕の長さは0.7m。手のひらより少し小さい程度とは0.15mくらい、と考えれば良い。

 求めたいF-16との距離をxとすると、10/x=sinθ

 θは、tanθ=0.15/0.7から、0.211(RAD:ラジアン)と計算出来る。

 sin(0.211)=0.2095、であるから、X=10÷0.2095=47.73m

 となる。

 もっと、単純に計算するなら、

 0.15/0.7=10/X としても良い。

 この場合は、46.67m。

 横に長〜い三角形の底辺を図るか斜辺を図るかの違いだ。そんなに長さは違わない。

 およそ50〜60m位の距離となるか・・・

 幾らなんでも、こんな近い距離ではないと思う。実際は、100mくらいだったのだろうか。

 この空想、三角関数を使わないとできない。

 もし、知らなければ「すっごい、近くをF-16が飛んだ!」としか表現出来ないのだ。

 このように、私にとっては、三角関数はとても役に立っているが、ひょっとしたら、他の人にとってはどうでも良いことかも知れぬ。

 某知事は「測量以外には使えないよ」と言いたかったのかも知れないが、それにしても「女の子には」は余計だろう。

 物差しを使うのに、男女は関係ない。

 

 日常生活に使わない、と言うのであれば、微積分は三角関数の比では無いだろう。

 ニュートンライプニッツには申し訳ないが、これは事実だ。

 名探偵コナン天国へのカウントダウン」で、灰原さんがニュートン運動方程式を使って、探偵団の子供達を救うシーンがあるが、あれは特別…だ。

 しかし、「駆使する訳では無い」というのと「知識として不要」というのは意味が違うと思う。

 やっぱり、三角関数くらいは知っておくべき「常識」だろう。

 某知事の主張は、短絡的不要論だと思う。 

 

 文科省は、今後、大学の人文系学部を廃止させるつもりらしい。

 国立大学は、文学部(等)を廃止し「社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組む」そうだ。

 「社会的要請」など、10年も経てば自ずと変化するのに、教育の基本方針を決定する役所の連中が、そんな近視眼的な発想で良いのだろうか…

 

 サイン、コサイン、タンジェントは、1万年経っても間違いなく使える。

 シェークスピアやトルストイは、何万年経っても愛読され続けると思う。

 一方、javaのプログラミングは、あと何年間通用するのだろうか。

 Androidに替わるOSだって、いずれ出てくる。

 

 某知事も元役人だそうだ。

 自称「エリート」達の考えていることは、私には理解出来ない… 

 

 

 

 

 

虚しい70回目の夏

 母親の実家には、海軍の白い軍服を着た兄の遺影(私にとっては叔父)があった。

 先の戦争で戦死したと聞いている。

 また、母のすぐ上の叔父は特攻機に乗る予定であったが、寸前で終戦を迎えたと言っていた。

 先日逝去した一番上の叔父は、戦地から無事帰還し、96歳で大往生を遂げた。その叔父から、戦争についての話を聞いたことは無い。

 私の父は、戦時は国内の軍需工場に務めており軍隊には行っていない。母は父のことを「卑怯者」「いくじなし」と罵っていたことがある。

 二人の兄を戦争で失っている母にとっては、兵役を避けた父に許せない感情があるように見えた。

 そもそも夫婦仲は良くない。

 亡くなった兄達が自分に対し大変優しかった反面、父は乱暴者。

 そのくせ、戦争に対して男らしくない態度・生き方をとった父が、母は許せなかったのだろう。

 「男らしくない」とは兵役を "志願しなかった" ことだと思われる。

 戦闘機の上で終戦を迎えた(健在)叔父は、特攻隊を志願していたそうだ。

 当時、前線に行きたいと思えば、お国のために特攻機で散りたければ、簡単に適う世の中だったのかもしれない。

 母からは、良いとこ無しの言われようの父だが、別に同情はしない。

 その時代のことは、私には分からない…

 因に、母は歴代天皇の名を全て言えるそうだ。学校では、そればかり覚えさせられたらしい。

 

 当時の日本国民は(国に、新聞に煽られた末)「鬼畜米英」と叫び、喜んで戦争に突入していった、みたいな言われ方がされることがあるが、私は不愉快である。

 まるで、戦争責任の一端が一般国民にもあるように聞こえる。

 個人の思想・信条は、本来は自由の筈。

 当時の国民が、どこの国に敵愾心を持とうがそれは人の勝手。

 (当時の憲法に「思想の自由」は歌われていなかったかもしれないが)

 軍部の尻馬に乗って「USAを倒せ」と一旦は国民も言ったのだから、戦争責任は政治家・軍部にのみ存在するのではない、との言い方は暴論だ。責任転嫁も甚だしい。

 例え国民が「XXを倒せ!」と言っても、それを諌める、止めるのが政治家・リーダーの役割であろう。「お前ら(国民)がUSAと戦争しろと言ったからやったんだ」などという言い分が通る訳がない。

 また、例え、当時のUSAを除く世界列強国の多くが帝国主義を掲げていたとしても、中国侵略の正当性など担保されない。

 「皆が信号無視していた」としても「私は赤信号では横断していない」「信号無視しても良い」とは言えない。

 事実と正義は、曲げられない。

 

 ある国は、過去に周辺国に悪いことをしたらしい。

 それは一般的には "侵略" と呼ぶらしいが、彼の国では「大陸への進出」と言っているらしい。また、他国の領土を一方的に戦車と戦闘機を使って占領することは「事変」と言う。

 因に他国の植民地を武力で強奪することは「共栄圏の建設」と表現されている。

 

 20年前に、その国のリーダーは、それらの行為について、自分の言葉を用いて正直に謝った。

 10年前は、その時のリーダーは、やはり自らの表現を散りばめて、改めてお詫びを表明した。

 今年のその日を前に、リーダーが声明文(談話)を出した。

 「前の二人と考えは同じ。これまでも謝ってきたし、今後も揺るぎない」とのこと。

 彼の読み上げた文章の多くには主語が無かった。

 「私はこの国を代表してお詫びします」と、彼は言わなかった。

 

 A君「ごめんなさい」

 B君「すみませんでした」

 C君「A君、B君と同じ考えです」

 

 ・・・・

 

 C君は謝っていない。

 謝ったようなことを言っているが、謝っていない。恐らく、本当は謝りたくないのだろう。

 C君の長ったらしい文章から抜粋…

 

「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。 」

 

 これにも主語が無い。

 「事変、侵略、戦争。国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。」 

 と言っている。その国の憲法にも極めて似通った条文が9番目にある。

 先日、彼は、世界情勢が変わったので9番目の憲法条文の解釈を変更すると言っていた。

 では、昨日の表現も、周辺国には普遍的な「不戦」の意思表明とは受け取られないだろう。

 因に彼は「過去にしたこと(侵略)が悪いかどうか」は、自分ではなく歴史家が決めると記者会見で発言している。

 やはり、謝っているようには聞こえない。

 人を殴っておいて「愛情表現だ」と言っているみたいだ。

 

 「植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。」

 これ・・・、誰のことを指しているのか分からない。

 80年前にその国から悪さ(侵略)をされた国は、今、南沙諸島に埋め立て地を建設している。これのことだろうか・・・?

 それとも、80年前にその国の東北地区に、自分達が建設した傀儡国のことを言っているのだろうか?

 「80年前にされたこと、今、お前やってるよね?」

 「皆、似たようなこと、やってんじゃん」

 そう言いたいのか?

 やはり、謝っているようには聞こえない。

 

 謝る気が無いのであれば、C君は発言すべきではなかった。

 彼は、記者会見の内容も、国営放送での説明も、だらだら喋っているだけで、私には内容が理解出来なかった。

 長く話す割には、内容が、要点がさっぱり伝わってこないのだ。

 何故だろうか…。

 

 70回目の夏。

 今年の夏は、暑く、そして虚しい… 

 

 

 

 

 

暑さとの戦い

 BLOGOSのこの記事に思わず見入ってしまった。

      ↓

  http://blogos.com/outline/128179/

 

 全国の公立小中学校のエアコン設置率に凄まじい地域差があると言う記事だ。

 これは、意外だった。

 所沢市で「エアコン設置の是非」に関する住民投票が行われたことは記憶に新しいが、地域格差がここまで存在するとは意外であった。

 私は学校へのエアコン設置は ”YES” の立場を取りたい。

 エアコンをいまさら贅沢品とは思っていない。また、日本の子供達を堕落させる享楽品とも思っていない。無いよりはある方が良い。色んな面でそれが合理的だと思う。

 子供達の精神修養に「暑さ」など、利用するものではない。

 さらに言えば「私が子供の頃は・・・」との言い分は頂けない。

 伝統的スポーツ校に先輩・後輩間のイジメが存在することを肯定するのと同じだ。

 少なくとも経済的ジェネレーション・ギャップに起因する環境格差に関しては、私達は受け入れるべきだ。親父・お袋たちの子供時代を察すれば当然の帰着である。

 せめて、公立の学校にもエアコンを設置してあげてほしい。

 

 私の通う高校は公立(府立)であったが、当時では珍しく全教室エアコン設置だった(単独設置ではなく中央制御方式)。

 その理由は、学校上空が旅客機の飛行経路にあったことだ。

 近くではないが、伊丹空港が少し向こうにあったため、しょっちゅう学校の上をジェット機が飛んでいた。

 日中から相当にうるさく、そのため、窓を開けずに授業ができるようにと、当時から府の予算でエアコンが設置されていたのだ。一般家庭にクーラー(エアコンではない)が普及し始めた頃の話である。

 私達は、さぞ、快適な高校生活をエンジョイした、と思われそうだが、それは違う。

 初夏の頃から、教室の窓はほぼ空けっぱなしであった。

 冷気が全くと言っていいほど効かなかったから・・・

 暑くて、とてもやってられなかった。

 だから、窓、全開。

 女子がスカートをまくってウチワで股間を扇ぐようなことはなかったが、相当に暑かったことは記憶している。因に彼女のいた女子校では、それをやっていたとのこと(ウチワの件)。

 飛行機の騒音は、入学して数週間で慣れた。

 先生方も飛行機が上空を通過する際は、授業であっても言葉を止めていた。私達にはそれで十分だった。

 私に「授業で先生の声が聞こえない」との記憶は全くない。

 それよりも、「暑いから窓を開けよう」と、生徒の判断で教室内の換気をしていた。これについて、先生から何か文句を言われた記憶は無い。

 「ゆず君、暑いから窓空けて…」

 私は窓際に席があって、誰かからそんなふうに言われた記憶があるだけだ。

 

 「練習中の水分補給は絶対禁止!」

 これは、中学・高校のバレー部で共通だった。

 自分でも、よく、熱中症で練習中に倒れなかったものだと思う。

 実は、私の記憶では、暑さを理由に練習中に卒倒した仲間はいない。

 確か・・・、いない。

 あんなに暑く、数時間の練習中、いっさい水分補給が許されなかったのに…。

 水分補給禁止の理由は、先輩曰く「疲れるから」

 そして、今、これを信じる人はいない。

 これは一体、何を根拠に、誰が言い出したのか?

 恐らく、日本の多くの学校部活動で踏襲された、くだらない伝統的行為だと思う。

 因に、当時「アルカリ飲料」なるものは日本に存在しなかった。補給できたとしても純粋に水だけだ。それに「塩」を突っ込む知恵は当時の私達には当然ない。だって、水がNGだったのだ…

 我々は、精神論に支配されていたのであろうか。

 「練習とはきつく、耐えるべきものだ」と。「先輩もそうしてきた」と。

 バカバカしい。

 

 あの頃、夏の最中、卒倒する同級生はいなかったが、それは「当時は今ほど暑くない」あるいは「当時の人達は耐性で今より勝っていた」から、という理由はあまり信用していない。

 私も調べてみたが、例えば、20〜30年前と今とで、日本の平均気温に大した差はない。

 データ上「今が特別暑い」という明確な根拠はないのだ。

 昔から、日本の夏は暑かった、と思う。

 要は、どう、それと付き合って行くか、の問題だ。

 

 先日、川崎太師の「風鈴市」に行っていくつかモノを買ってきた。

 今も、それは窓際で鳴いてくれている。これは、涼しい気分になる。

 この数日、時々、食卓に「かき氷」がでる。

 もちろん、ビールは飲んでいる。日中から…

 先日、お隣からスイカを戴いた。これ、どこで作っていたんだ?

 昨夜、庭で花火をした。お盆なので。

 そう言えば、迎え火の準備も必要だ。

 彼女、数年前は、ゴーヤでグリーンカーテンを作っていたが今はやっていない。

 そう言えば、いくつかあった簾はどうしたんだろう?最近出していない。

 

 風鈴は今も鳴っている。

 名前は「鈴虫」。南部鉄のもの。いい音だ。

 

 

 私達は、ず〜っと昔から、夏と同居していたのだ。

 それは「戦い」ではなかったと思う…

 

憧れのストッキング

 タイトルは、いやらしい意味ではない。

 ここでいう「ストッキング」とは、野球選手のユニフォームにおけるものだ。

 いやらしい意味でのストッキングも好きではあるが、憧れてはいない。

 私はおっさんであり、昭和の生まれであり、・・・だから、やっぱり野球大好き少年だった。

 私の子供の頃のプロフェッショナルスポーツは、何と言っても「野球」だった。

 相撲もいいが、やはりプロ野球高校野球は格別だった。

 私は地域の野球チームに入りたかったが、なんやかんやで実現しなかった。

 でも、近所の空き地での「草野球」は、小学校を出るまで仲間達と散々やった。ほぼ、毎日のようにやっていた。

 当時は、「空き地」があり、そこで野球が出来たんだね・・・

 

 私にとっては、野球選手は一種の憧れだった。

 だから、あのユニフォームを見るとドキドキする。

 上手く説明出来ないが、野球のユニフォームはカッコ良い、と思う。

 何であんなに厚着なのかは分からない。長ズボンでプレーするのはスライディングのために必須であることは分かる。

 しかし、何で上半身のウェアは、上着とアンダーに別れているのだろうか。昔からそうなのか?

 ゲーリックやルースの写真を見るに、あの頃から基本デザインに大きな変化は無いようだ。もちろん、素材は凄まじく変革はされているであろうが。

 野球の特徴的なユニフォームデザインの中で特に好きなのが、冒頭に言った「ストッキング」だ。

 独特のデザイン。

 でも、アンダーソックスも履いているのに、何でその上からひも付きのソックスを履くのだろうか・・・。

 それに、何らかの意味はあるのであろうが、何なのだろう?不思議だ。あれ、スライディングの邪魔にならないのだろうか。

 

 いつからか、日本のプロ野球選手はストッキングを履かなくなった。

 私には、落合博満氏がストッキングを履かずに、ストレート丈のパンツをスパイクを隠すまでに伸ばしたスタイルで登場した時に、「おおっ!」とTVに見入った記憶がある。

 あれが最初だったのだろうか…?

 その後、あっと言う間に日本でストッキングは駆逐されてしまった。

 何だか残念だ、とずーっと思っていた。

 「あのストッキングがいいのに・・・」

 

 いつからか、イチローがクラシックなストッキングスタイルでメジャーリーグを席巻している。

 彼は、ストッキングが凄く、素晴らしく、著しく「似合う」。

 凄くかっこいいと思う。

 彼の走る姿は、本当に美しい。

 是非、続けてほしい。

 日本でもストッキング、復活しないだろうか・・・

 

 夏の甲子園では、熱戦が続いている。

 彼らは、皆、伝統的なユニフォームを着ている。

 皆、ストッキング・・・

 私は興奮して見ている。

 彼らのプレーは美しい…

 女性の ”それ” についても同感だが…

 

 

忌むべき思想

 あの日から30年が経った。

 今日のTV番組は、あちこちで ”あの事件” の特集を組んでいる。

 今年は、あの大事故からの節目にあたる年である。

 そもそも、今回に限らず、過去からの教訓を得る意味で振り返る意義はあると感じている。

 何年か前に、事故時のボイスレコーダーの内容がTV番組で公開された際、その内容を聞いて戦慄を覚えた。過酷な状況下で、パイロット達が墜落を逃れるために獅子奮迅の働きをしていた事実を知り、胸の圧迫が押さえきれなかった。

 機内にいた乗客達の恐怖を想像すると言葉が出なかった。

 尾翼を失った飛行機は舵が効かないため、パイロット達が、右に左にバンクしながら何とか飛行高度を維持しようとしていたことは、その飛行航路を見れば理解出来る。

 あの蛇行の軌跡は、関係者の渾身の努力を物語るものだ。

 

 どうすればあの事故を避けることができたのかを考えることは、今でも十分に意義のあることだと思う。

 危機管理、安全管理の重要性を考える上で、極めて重大な教訓を残した事故である。

 改めて、犠牲者の方々の冥福を祈る次第である。

 

 墜落したジャンボジェット機は、ボーイング社製だった。

 過去に尻餅事故を起こした際のメンテナンスの不十分が事故の起因になったとのこと。

 私達にもっと十分な保守技術があれば、あの事故は避けられたのであろうか。

 または、そもそも国産製であれば、あの事故は起き得なかったのか。

 ボーイング社の整備指示に対する瑕疵があったことは事実であろうが、その技術供与を受けていた日本人の私達に、もっとできる努力は安全面でなかったのであろうか。

 

 純国産の大型商用ジェット旅客機は、現在に至っても私達は持ち合わせてはいない。

 その ”技術” がないからだ。

 だから、大型商用ジェット旅客機は輸入している。

 その遠因は、先の戦争に負けて、USAから永らくジェット機製造を禁止されたからだと聞く(国産プロペラ機であればYS-11がある)。

 そう言えば、昭和の時代、日本航空をはじめとする航空会社の振り切った高処遇制度の理由は、終戦後、パイロットが国内で調達出来ないため、わざわざ国外から外国人を雇ったことに起因すると聞いたことがある。

 パイロットに併せ、スッチー(CA)が当時、ハイヤーで最寄りのホテルから送迎されたという厚遇の理由もそれによるものらしい。

 当時の日本は、情けないことであるが、特攻隊員にパイロットを消耗してしまい、人材が残っていなかったというのだ。 

 

 なんだか、本当に情けない話である。

 終戦後、暫くの間、日本には飛行機もなければ、操縦者もいなかったのだ。

 だから、一時期、それに携わる人達は一種の特権階級でもあった。

 あの業界は、永らく私達日本人の憧れの的でもあったのだ。

 飛行機を飛ばす、ということ自体が…

 

 日本の航空機業界の安全を確たるものにするには、少なくとも国産技術による航空機開発は必須であろう。

 他人の作ったものを使っておいて、その運用において完璧なる安全システムを構築することなど不可能だ。

 その意味で、日本は「飛行機」や「ジェットエンジン」について先進国ではない。

 まだまだ、他国に学ばねばならない部分がある。

 私達には、未だ熟知していない技術分野が多く存在するのだ。その事に対して、私達はあくまでも謙虚であるべきだと思う。

 

 昨日(11日)、川内原発が再稼働された。

 このことについての議論は尽きない。

 今朝の日経新聞には、原子炉の加圧水型と沸騰水型の構造比較記事が掲載されていた。

 この手の技術項目が新聞に紹介されること自体が珍しいとも思えるのであるが、その内容を理解出来た国民は、一体どれほどいたのだろうか。

 

 何故、国内には大きく2種類の原子炉技術が存在するのであろうか。

 ・・・

 その理由は、端的に言うと、炉の設計がGE(General Electric)かWH(Westinghouse)かの違いなのだ。

 原子力プラントも、ジェット機と同様、輸入技術なのだ。

 東芝製=WH、日立製=GE、だ。

 私達は、生活の根幹にかかわるエネルギー生産技術を外国に頼っている、とも言える。

 この事実は、戦後70年変化していない。

 私達の生活の安寧は、USAのおかげです…

 

 最近、「日本や日本人は凄い」との論調の書物やTV番組を目にすることがある。

 愛国心は大いに結構。

 しかし、「日本人は手先が器用」とか、「日本民族は繊細で感性に優れている」、ひいては「日本人は勤勉で真面目で優秀」とかいう言説は本当なのか?

 何をもってそんなことを言えるのであろうか。

 少なくとも、私はドイツやイタリアの方々は、十分に手先が器用だと思っている。

 私は「日本は凄い」というような表現は忌々しいと感じている。

 70年前まであった選民思想に通ずるようなものを感じて気持ちが悪い。

 自分たちのことを卑下する必要はないが、他民族よりも「優秀」であると確たる根拠を持ち合わせず考えることも、言葉にする必要もないと思う。

 何故、そのようなことを考えねばならないのか?

 何故、そのような思想をもつ必要があるのか?

 

 私達には学ぶべきことが多くある。

 原発に関してだけでも、私達日本人は、「スリーマイル島原発事故」「チェルノブイリ原発事故」の双方に学んだとは言い難い。

 私達は本当に優秀な民族なのか?

 

 「すごい国、ニッポン」という前にやっておくべきことはある。

 あれから、30回目の夏を迎えて改めて思う。

 

 

 

殉死の効用

 「忠臣蔵」の有名なシーンを思い出した。

 主君浅野内匠頭切腹」の報を受け取った赤穂藩の家臣達は動揺し、城代家老大石内蔵助に詰め寄る。

 「ご城代は何と考えられる。ろう城か?はたまた仇討ちか?」

 内蔵助は答える

 「殉死でござる…」

 「ハッ?殉死?」

 「そう、殉死でござる。幕府の理不尽な差配に抗議する意味で、家臣もろとも城を枕に腹を切りましょうぞ」

 「・・・(それは無駄死にじゃ)」

 

 東芝不正経理に関する後始末は関係者により着々と淡々と進行している。

 一見、順調にも見える不祥事後始末の基盤を作ったのは、田中(前)社長の決断だ。

 経営陣9人が退任。執行役員16人の役員報酬カット。

 処分の中には歴代社長3代の役職からの退任が含まれている。

 一般に、企業不祥事の処分の際は、トカゲのしっぽ切りが行われるのであるが、東芝の場合は違った。

 まさに、本社を枕に社長以下の役員の多くが殉死した、というありさま。それも、株主総会を待たず第3者委員会による調査報告書の開示をもってだ。

 一見、潔い。

 しかし…、違うと思う。

 前社長の記者会見の態度を見て「不誠実」「不実」を感じた私にとっては、これは「証拠隠滅」の最たるものだ。

 この事案は、「不適切会計」などではない。

 「粉飾決算」だ。

 このような用意周到な粉飾は、不正の度合い・案配を的確に指示する経営者(役員)と経理の専門家が各事業部に張り付いていないと行えない。

 彼ら(東芝)は、マスコミが「不適切」という用語を使わざるを得ないよう、グレーゾーンをきっちりと守って不正を行っている。

 監査法人が共犯であるかは不明であるが、少なくとも彼らが職業倫理的に不正を告発しなくてはならない事態を経営陣は確実に回避している。これは、ある意味、見事過ぎる内部統制能力だ。悪い方向に使っているが…。

 この粉飾に関与した者達が一斉に会社を去ったのだ。

 関係者が、もう、記者会見で不正の具体的な手段について事情聴取されることはない。検察も見て見ぬ振りを決め込むようだ。

 前社長の見事な采配だ。

 「信頼回復の道筋をつけるのが私の責任だ」

 過去、引責責任を問われた何人もの企業経営者達が謝罪会見で発したセリフだ。

 今回は違う。

 「本日をもって私は責任を取り退任します」

 「ハッ?では次期社長は誰に?」

 「ここにいる室町が…」

 記者会見場にいた多くの記者達は、不意打ちをくらい、恐らく次に発する言葉を探していたのであろう。その間に記者会見は終わってしまった。

 何度もいうが見事な殉死だ…

 ドラマは終わった。

 

 東芝の信頼回復、経営正常化への道のりは平坦ではない。

 多くの役員がいなくなったが、後継に困ることはないだろう。あのような会社には、抜擢・登用を待つ優秀な幹部がひしめき合っている。

 良い意味での世代交代が行われたとも受け取れる。

 妖怪が地獄に帰り、伏魔殿が閉店しただけかも知れない。

 しかし、一旦手を染めた粉飾行為、不正を容認する社風を正すことは存外簡単ではないかもしれない。

 社外取締役を何人置いても無駄。

 SONYの轍を踏まないことが肝要。所詮、社外の者に会社のことは分からない。

 彼らがチェッカーマン以上の存在になることを過大に期待すべきではないと思う。監査法人に至っては言うまでもない。

 

 極めて日本的な企業が、グローバルスタンダードに基づく高次元での不正を行い、極めて日本的な手法でその責任をとったのが今回の事案であった。

 因に「粉飾決算」を「不適切会計」というのは、それこそ不適切だと思う。マスコミの頭脳構造が不適切なのだと感じた。

 名門企業の一刻も早い経営再生を願っている。

 

 

 

 

ロータリー・エンジンの復活

 ANIMAXは、好調である。

 この数ヶ月間は、「イニシャルD」に見入っている。しげの秀一氏によるカーバトルものだ。

 昨日、4th stageが終了した。来週からは5th stage、最終シーズンが始まる。

 舞台は、いよいよ神奈川県。何処の峠でバトルが展開されるのか楽しみだ。

 このアニメのストーリーは、ある意味でストイックだ。

 ただひたすら、峠のバトルが延々と続くだけ。

 たまに女の子が出てくるが、それは、あくまでも付け足し。話は、あくまでも、徹底して、車同士の峠バトルが主役。とても潔い。

 そして、ストーリーは全然飽きないし退屈しない。

 映像、そして特に音声(エンジン音)が素晴らしい。

 CGを駆使しているが、描写は極めてリアル。音楽も良い。

 かなり、視聴者を選ぶ作品ではあるが私は気に入っている。

 さて、Project Dはどのような結末を迎えるのであろうか。来週からが楽しみだ。

 

 この話の主人公が乗る車は「スプリンタートレノ」。AE-86だ。

 このややクラシックともいえる車を使って峠の下り(ダウンヒル)を専門に走る。

 「レビン」ではなく「トレノ」。

 何でトレノなのかは分からない。

 私の友人にAE-86乗りは何人かいたが、全てレビンだった。理由は「トレノのリトラクトヘッドライトは嫌」との理由。

 リトラクト構造は当時の女子が珍しがった。注目を引いた。

 一方で、それを少々軟弱と捉える向きもあったようだ。

 私はイニシャルD」を見ている間に、トレノがスタートする際、ライトをアップさせるシーンが気にってしまっている。

 トレノ…、いいなぁ〜、と思っている。

 イニシャルD」がマニアックな理由の一つは、主人公の乗る車がAE-86である、ということだ。

 GT-Rではなく、レガシィでもなく、セリカGT-4でもない。AE-86。

 これは、オールドファン・FR原理主義者たちにとってはたまらない設定だ。

 

 一方、ライバルの高橋兄弟は、RX-7に乗っている。

 劇中では「FC」と呼ばれている。

 私の友人には「FC」乗りもいた。2人。

 正確には「FC」と「FD」。

 「FD」乗りは、以前も話題にしたことのあるM先輩。

 M先輩は、レビンGTV(APEXではない)に乗った後、FDに乗り換えた。

 先輩曰く。

 「ロータリーはモーターみたいだ。アクセルを踏んだら、高回転域までそのままブ〜ンって回る」

 しかし、低回転域は「めっちゃトルクが細い」

 とも言っていた。

 何度か乗せてもらったことはあるが、助手席ではそのフィーリングは分からない。

 

 MAZDAがフォードと資本提携した時、ファン達は気を揉んだものだ。「メリケンの社長にロータリーの良さがわかるのか」と。

 同じようなことは当時の日産にも言えた。「カルロス・ゴーンGT-Rなんかに興味は無い(単なるコストカッターではないか)。生産中止になる」と。

 結果はどちらも杞憂であった。

 RX-7GT-Rは生き残った。

 今、RX-7RX-8)は生産されていない。2012年にその生涯を終えている。天寿を全うしたと言って良い。

 ロータリーは、コンパクト・高出力・超スムーズなエンジンである。

 捨てるには惜しい技術だ。

 そう思ってイニシャルD」を見ていたら、「MAZDA東京モーターショーRX-7を出品する」とのニュースが流れてきた。

 2015年なのか、2017年なのか、詳細は知らないが、私は少なからず驚いた。そして嬉しくなった。

 最近のMAZDAは元気だ。

 ダイナミックなフォルムを纏ったRX-7が華麗に再登場する。

 ワクワクしている。

 

 

 

選択肢を奪われた国民の悲劇

 「お灸を据える」という言葉をご存知か。

 遥か古、昭和の頃、悪さをした子供を嗜めるため、いや罰を与えるため、当時の大人達が好んだ所行だ。

 嫌がる子供を押さえつけ、無理矢理、手や足に灸を行う。 

 熱いので、当然子供は泣き叫ぶ。

 「もう、悪いことはいたしません」と子供達は泣きながら謝罪の言葉を発した。

 

 今ではこれを「幼児虐待」という。

 「しつけ」と体罰の境目がつけられない現代では使えない戒めの手法だ。

 私がまだ青年(選挙権を持っていなかった)の頃聞いた「お灸」にまつわるその言葉は、政治というものへの個人的嫌悪感を増幅させた。

 「今回は野党に投票した。自民党にお灸を据えた」

 TVインタビューにそう答えた老人がいた。

 何者なのか、どこの田舎者か分からない老人であったが、今考えると彼は世論を巧みに表現する言葉の天才だった。

 彼は「天罰」とは言わなかった。「お灸」と言ったのだ。

 つまり、自民党が悔い改めた姿勢を見せれば、次回はまた自民党に投票すると、大敗した与党に対して、今後進めるべき政策の方向性と国民支持の関係について説いてみせたのだ。

 当時の自民党が、ある意味、国民から如何に信頼され、根強い支持を集めていたかが想起出来るエピソードだ。

 そして、その頃の自民党は「悔い改める」矜持というものを有していた。そして彼らは悟り、後輩達に申し伝えた。

 「選挙は怖い…」と。

 国民を無視した政策を行えば、必ずしっぺ返しを受ける。例え、それが政権交代に繋がらなくても、各自は議員として「国民による粛正」を覚悟しなくてはならなかった。

 

 一方、国民は政権交代など考えもしなかった。

 自民党の代議士個人に鉄槌を加えれば、それで良かった。

 何故なら、

 政権交代社会党政権。

 それは、自治労日教組全電通国労による組合民主主義、革新イデオロギーの導入、日米安保の廃止、日の丸:天皇制の否定を意味したからだ。

 国民にそんな選択肢はあり得なかった。

 当時の選挙制度は中選挙区制

 多少、野党に票を入れても政権交代など起こり得なかった。その選挙区で地盤の弱い候補者が落選しただけだ。自民党への警告はそれで十分だった。

 派閥の領袖の寵愛を受けた議員は知名度・貢献度ともに高く、安定感は抜群だった。

 そして、そのような選挙による洗礼、フィルタリングをかいくぐった猛者達は、いずれ国務大臣に抜擢されて行った。

 当時の自民党は派閥政治。

 派閥は良い意味での党内抗争を誘発していた。

 自民党内には、思想的に明確な右派と左派があった。「リベラル」などという訳の分からないフワッとした政治思想・和製英語が存在しない頃だ。

 

 この頃、集団的自衛権行使は口にすること自体が「タブー」だった。何よりも立憲主義に基づく政治運営が与党・政党運営の根幹であり正道である時代だった。

 これ以外の思想は「革命」だ。政治システムの転覆を意味する。

 その点で、日本社会党日本共産党は看板は違えど思想的には同床異夢であった。

 因に現在「日の丸」を見たら目眩がするという教職員は、当時の組合や政党による洗脳教育を引き継いでいる人達だ。21世紀に至っても、組織ぐるみのマインドコントロールを継続しているのであるからたまげる。

 この人達は、日の丸と君が代を否定すれば戦争の無い平和な時代が訪れると本気で信じている。ここまでくれば、もう宗教だ。

 

 もし、この頃の自民党総裁=総理大臣が、USAに媚を売るために集団的自衛権行使を「解釈改憲」で行う、と言ったらどうなっていたであろうか。

 間違いなく党内抗争が起きる。

 このような国策を左右するようなケースにおいて、かつての自民党は派閥が政局を引き起こすことによって党内バランスをとっていた。つまり、危険思想を持つタカ派の総裁は引きずり下ろして、穏健派の代表にすげ替えてしまうのだ。

 政権交代は起きなくとも、どの派閥が政権を担うかについては、常に柔軟な変化・変更を遂げてきたのが自民党である。

 安定感抜群。

 

 議員達は、危険極まりない思想をもった代表と間違っても心中したりはしない。

 各個人の思想は、属する派閥内で尊重され堅持されるのだ。決して信念を曲げる必要は無い。

 「憲法違反である」と個人が考えれば、派閥は同じ思想・信念を持った者同士の集まりであるから、それを曲げて総裁の政策を支持することはない。

 気にくわなければ自分たちの親分(領袖)を総裁に担ぎだせば良いのだ。

 自民党の派閥は、同じ理念を持つ者同士の政策の方向性を定めるとともに、次代を担う政治家を育てる機能を持ち合わせていた。金と権力を貪るが誤った方向には向かない性向を持ち合わせていたのだ。

  このシステムは、小泉純一郎総裁の時代に完全に破壊された。

 彼は組閣にあたって、派閥からの推薦名簿をいっさい受け取らなかった。

 党の権限は3役に集中させた。

 これにより、総理と官邸の権力は著しく増大した。

 良い意味でも悪い意味でも、総理・総裁のリーダーシップが発揮出来るようになったのだ。

 

・・・・・・・

 

 今の自民党内にも、「解釈改憲」に反対の議員はある程度いるはずだ。

 しかし、党内から反対の声は挙らない。

 その理由は、党幹事長が各代議士の次期総選挙における「公認」と「選挙資金」を人質に取っているからだ。

 彼らは「聖職」「天職」として政治家をやっているのではないので、選挙での落選だけは絶対にしたくない。生活に困るから…。

 だから「憲法違反」と明白であっても、党の方針に反対したりはしない。

 国民が幾ら反対していても。

 自らの生活のために「理念」「信条」「真理」を党に売るのだ。

 もはや彼らに、矜持などというものは存在しない。

 目先の「金」と「地位」が大事なのだ。

 ABEは、このシステムを最大限に活用し、自ら持つ権限を行使し、やりたい放題をやっている。

 このような独善的手法に国民としては忸怩たる想いを重ねるばかりであるが、絶対安定多数をもつ巨大与党は止められない。

 このような事態にあたり、評論家の中には「自民党を選んだ国民が悪い」という者もいる。

 しかし、待ってほしい。

 私達国民には「選択肢」が無いのだ。

 自民党に絶対多数を持たせたくなければ野党に投票するしかない。

 しかし、民主党なんてご免だ。死んでも入れたくない。皆、そう思っていた。

  結局、私達の消極的支持が、あの「バケモノ」を生み出してしまった、ということだ。

 

 自民党総裁は党内の代表戦で選ばれている。

 自民党員は彼を選んだ。

 自民党員は、彼が、ABEが危険思想を持っていることに気が付いていたのだろうか。

 

 国民は、まさか自民党が「憲法違反」に進むとは、夢にも思っていなかった。

  私は、彼が復活すること自体が想像できなかった。

 それに、総理大臣選出が私達から見て間接選挙である限り、「責任をとれ」と言われても困る。どうしようもない。

 このような事態になるリスクを考えていては、私達は総選挙など出来なくなる。

 国会議員の中に、デーモンが混じっていることを前提に、国政選挙などできるものか。

 

 私達は、もう、右にも左にも行けなくなった。

 「選択肢」が無いのだ。

 こんな悲劇が来るとは思っても見なかった。

 

 今日、憲政史上類を見ない暴挙・愚行が衆議院本会議で行われる…

 

 

 

 

 

良識の価値

 参議院議員定数をめぐる「10増10減」案は、予想通り揉めているようだ。

 議員定数を減らされる「鳥取と島根」「徳島と高知」が文句を言いたい事情は理解出来る。

 しかし、4.77倍という途方も無い「1票格差」の問題を前に「地方の声が国政に反映されなくなる」との言い訳は、余りに空しい。論理的に空虚だ。

 そもそも、参議院議員は地方の声を反映するために存在するのであろうか。

 関係者は、「1院制への移行」すら議論がなされる状況下、「地方の声」というような情緒的な意見をもって、「良識の府の存続」という根幹にかかわる深刻な問題を解決できるとでも考えているのだろうか。

 究極的には、1県に1人以上の参議院議員をおいた上で、「1票格差」の問題を解決しようとするならば、議員定数を増やすしか方法はない。

 それでなくとも、役に立たない、不要な参議院議員をさらに増やすしか、解決策はなくなる。

 あるいは、参議院を「全国区」にする選択肢もなくは無いが、そんなことをやってもこの国の政治が進歩・進化する訳では無い。

 ただ飯喰らいの役立たずの存在を、ただ持続させるだけだ。

 

 なんとも、不毛な議論だ。

 「良識の府」としての役割・存在価値を示せていないにもかかわらず、「定数減」に真っ向から反対する。

 その理由に「地方の声」という、生来理由とは関係ない理屈を持ち込む。

 反対している関係者は、頭が悪いというよりも、単なるごろつきの集まりなのではないか、と疑いたくなる。

 

 この国では「良識の価値」が無くなりつつある。

 これは、必ずしも「政治」のことだけを言っているのではない。

「新国立競技場」に関する提案

 新国立競技場の2520億円にものぼる高額建設費が話題になっている。

 キール1本500億円との触れ込みは、余りに安直過ぎる例えなのであろうが、この施設の建設費がスカイツリー4本分という桁外れの値段であることは間違いない。

 何でこんなことになったかは、詳しくは伝えられていないが、関係者の見込み違いと元総理のいつもながらの非常識な判断、皆自分が払う訳でもないという金銭感覚、究極的な無責任体質がこの1件を生み出したことだけは分かる。

 私達は、この国は、残念ながら未だにアホなままだ。

 東京オリンピックの象徴として重要な位置付けにあることは理解出来るが、それにしても常識はずれのコストだ。

 そこまでして、当初プランに固執する必要はないだろう、というのが大方の国民の本音ではないだろうか。

 私もそう思う一人。

 

 この際、代々木にド派手な競技場を作ることは諦めてはどうか。

 その代替施設としては、埼玉スタジアムを勧める。

 あの立派なスタジアムであれば、開会式や陸上競技も十分に可能だ。屋根だって、相当部分カバーされている。

 「東京じゃ、ねーじゃん」と言われそうだが、恐らく大丈夫。

 一時的に「美園」の地名を「新東京」あるいは「新代々木」「第2信濃町」あたりに変更してしまえば良い。

 外国人に「トーキョー」の正確な定義など分からない。

 「東京ディズニーランド」が成立している国なのだ。

 「窃盗」を「万引き」と言ったり、「売春」を「援助交際」、「偽装」を「演出」と言ったりするお国柄なのだ。

 埼玉の南端を一時的に「東京」と言っても許されるのではないか?

 

 この施策は、「さいたま」の方々のプライドも考えて、2019年末からオリンピック終了までの一時的なものとする。

 所定の目的が達成されれば、もとの状態に戻す。

 「さいたま」はやはり「さいたま」。「美園」はやっぱり「美園」。

 これで、何とか、「さいたま」の方々の協力を頂けないものだろうか。

 日本全国の方々から感謝され、その偉業は永久にこの国のスポーツ史に刻まれる。歴史に残る美談になると推測する。

 「さいたま」県民におかれては、地元で開会式・閉会式が行われるメッリトを鑑みて、何とか協力頂けないものだろうか・・・

 

 自分では、結構、現実的なアイデアだと思っている。

 「さいたま」がダメなら、「小机」の日産スタジアムでやっちゃうよ…

 

極限対応による最大不幸

 新幹線のぞみ号における焼身自殺と、その結果としての乗客殺傷事件は、関係者と一般市民に大きな衝撃を与えた。

 政府は早速JR各社の関係者を集めて、安全対策の要請をしたとのこと。

 一部の報道には、新幹線にスプリンクラーが搭載されていないことの不備を指摘するような意見もあったようであるが、現実問題として車内で焼身自殺を図ろうとする輩から、車台・乗客を防衛する手段など、誰も考えてはいないだろう。

 幾らなんでもそれは無理筋だと思う。

 ここは、日本だ。

 日本の社会インフラは、平均的日本人の常識的行動に裏打ちされて設計・構築されている。IS(Islamic State)の存在など、想定していないのだ。

 「2020年東京オリンピックに向けて、世界の人々が安心して訪日してもらえる安全な社会システムを構築する必要がある」旨の発言が関係者から発せられているようである。

 …私は何だか嫌な予感がしている。

 

 具体案の一つとして、早くも新幹線向けの金属探知機の設置を具申する人がいる。欧州の一部では導入している国があるとか…。

 本当…?何処の国だ?

 少なくとも、私はドイツではそのようなもの見なかった。一体どこの国でそのような仰々しいものを設置していると言うのか。

 それに、金属探知機でポリタンクやガソリンの存在を検知できるとでも言うのか…

 大都市間500Kmを、1000人を乗せた弾丸列車が5分間隔で走行し、1日に延べ40万人近くを輸送している。その終端となる東京・新大阪駅の喧噪・超過密は、日本人の誰もが見て知っている。

 あそこに、空港のようなボディチェックシステムを置く…だと?

 ・・・

 空港では、20分前の搭乗手続き完了を指示しているのは承知の通り。

 そんなこと、新幹線ではできっこない、と一般ピープルの私は考える。

 そして、何よりもそんなこと「無駄」だ。

 一体、どれほどのリスクを排除するために、そのような大袈裟なことをする必要があると言うのか。

 それこそ、ごくごく少数の精神破綻者や異常行動者、テロリストの存在可能性から身を護るために、システムの利便性の最大項を喪失する愚行に走ろうと言うのか。

 このような安全対策方針の無意味さの点では、既にバカバカしい事例がいくつか存在する。

 

・「オレオレ詐欺」防止やマフィアのマネーロンダリング対策に銘打った、銀行の口座間取引の限度額設定

・科学的根拠が希薄な、電車内における心臓ペースメーカー装着者の安全確保のための携帯電話電源切断指示

・特定の方への注意喚起のための、ハイブリッドカーへの「人口エンジン音発生装置」装着命令

・無差別大量殺人防止のための街中からのゴミ箱撤去

 

 これは、リスク対策として僅少の効果が期待出来るだけであって、効率性の面では全くもって無意味な行動・対策であると思っている。利便性を失うこと甚だしい。

 一体、これらの施策によって全国民の何%が救済されているのであろうか。

 多くの善良なる市民から見れば、極限状況を前提に日常の最大多数の利益を喪失しているようにも見える。

 いくら何でも他に方法があるんじゃないか、と思うのだ。

 

 監視によって、テロは防げない。

 日本の安全神話を堅持するために金属探知機を設置するのであれば、果たしてそれは新幹線だけで良いのか?

 外国からの訪問者は、移動に新幹線だけを使うともでも言うのか?

 朝夕のラッシュ時に山手線で焼身自殺を図ることは不可能なのか?

 つい先日、京浜東北線で包丁を振り回した異常者がいたが、あれは「例外」か?(優先座席でのケータイではなくタブレット端末使用が事件の発端)

 

 私は「安全」を名目に、利便性を著しく損なう仕掛けを導入することには抵抗感がある。

 そして、そんな方策には、限界がある。

 効果は限定的であり、失う利便性の方が遥かに大きい。

 

 新幹線や他の交通機関、街中での無差別殺人には、各個人の、ひいては社会全体の安全意識でもって対処するしか無い、と思う。

 それがベターであると確信している。

 性悪説にもとづいて社会システムを作ることは日本に似つかわしくない。

 

 

労働者派遣法の意味すること(2)

(つづき)

 

 西郷は、「ヒドラ」に戻り、直接の上司であるテリー近藤との面接を行っていた。

「ボス。派遣先から切られた理由は何ですか?私は何か不都合を起こしたでしょうか?或は、『ろうどうきじゅん…何とか』との面談で会社規則に反するような発言をしたのでしょうか」

「デューク、君に不都合の責任は無い。」

「では、何故?」

「当局は、君の遂行している業務内容は、『労働者派遣法に定める26業務に相当しない』との判断だそうだ。よって、3年以上の継続した派遣契約は彼の企業とは出来ない、との指達だ」

「Why Japanese Pepole …! 」

「現実の業務はそうなのであるが、社内システムの運用支援業務に限った場合、労働者派遣法の専門26業務にそのような定義は存在しない」

「えっ?」

「我社が請け負った派遣業務の主体は、『OAインストラクション』だ。君の担当業務、つまり派遣先から指示される業務内容の90%以上はこれが占有しなくてはならない」

「そのような制限は聞いていませんでしたが」

「すまない。当時の担当者の認識が甘かったのかもしれない」

「労働基準監督…、の方が私の具体的な担当業務を詳細に聞いてきたのは、私がルールに合致しない形で派遣されているかもしれないことを確認するためでしょうか?」

「恐らく、そうだろう」

「何故、3年間はOKなのに、それ以上はだめなのでしょうか」

「この国の労働法制は、企業の完全雇用を基本としている。高度に専門性が高い業務以外は、正社員としての雇用確保が原則なんだ。だから、3年間もあれば、人材育成により如何なる業務であっても余人をあてがうことは可能な筈だ、という考え方だ」

「26業種だけが、余人をもって替え難いという、国の判断ですか…」

「そういうことになる。君のヘルプデスク業務は『OAインストラクション』には該当しない、というのが当局の判断だ。」

「そうですか…。社員への技術的アドバイスの件を確認したのはそのためだったのか。うかつでした。」

「君のせいではない。派遣開始当初はその業務が中心だったが、社員のITリテラシー向上により、その必要性が薄らいでしまったんだ。」

「私は、今後どうすればよいのでしょう」

「現有スキルを活用出来る他の派遣先を探させてもらう。しばらく、休養してくれ」

「分かりました…」

 デュークは ”Yes” とは言ったものの、納得出来ない部分があった。

 

「26業務が余人をもって替え難い高度な専門性を有しているとは到底思えない…」

 日本とは不思議な国だ…

 

・・・・・・・・

 

 労働者派遣法施行令第4条で定められた26業務

1.ソフトウェア開発

2.機械設計

3.放送機器等操作

4.放送番組等演出

5.事務用機器操作

6.通訳・翻訳・速記

7.秘書

8.ファイリング

9.調査

10.財務処理

11.取引文書作成

12.デモンストレーション

13.添乗

14.建築物清掃

15.建築設備運転・点検・整備

16.案内・受付・駐車場管理等

17.研究開発

18.事業の実施体制等の企画・立案

19.書籍等の制作・編集

20.広告デザイン

21.インテリアコーディネーター

22.アナウンサー

23.OAインストラクション

24.テレマーケティングの営業

25.セールスエンジニアリングの営業

26.放送番組等における大道具・小道具

 

 昭和の香りが漂う業務が満載だ。

 上記の業務のみが「永久派遣」を認められているという現実。

 

「生活が…」泣き崩れる傍聴者 派遣法改正案 衆院通過へ

 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015061902000244.html

 

 この方が主張していることは「既得権を守れ」だ。

 この方、56歳になるまで、一体、26業務のどれに就いていたのだろうか。

 これまで、それ以外の仕事で正規雇用されることを考えたことはあるのだろうか。それとも、一般に束縛の小さい派遣業務の就労形態が気に入っていたのか…

 

 経済・社会情勢の趨勢により、業務の専門性が変化することはこれまでもあった。

 例えば、「OA」とは「オフィス・オートメーション」のことであるが、こんな言葉、「死語」だ。だから、それに関連する職業も今や専門性が高い、と言い切れない。

 このような職業に固執して永続的な雇用確保を求めても、現在では無理筋であろう。

 今回の労働者派遣法改正は、「完全雇用」を前提とするならば、現行法制の矛盾・不公平を是正する ”改正案” である。連合や民主党の主張する ”改悪” ではない。

 問題の本質は、「3年間」という時間でもなければ「26業務」の内容でもない。

 「何故、企業側は派遣を必要とするのか」

 「何故、正社員として雇用しないのか/されようとしないのか」

 だ。

 働き手から見た場合、柔軟な就労形態への要求が存在する限り、この問題は諸刃の刃として、立ちふさがり続けるだろう。

 つまり、どっちもどっちなのだ…