「O・MO・TE・NA・SHI」の前に「恥を知る」を
先日、読売新聞の「大手小町」に「何故、電車の中の化粧がいけないのか」との意見が投稿され、大変な盛り上がりになっていた。
投稿者の言い分は、
「急いでいる時には仕方が無い」
「おにぎり食べたり、携帯プレーヤーを聞くのは良いのに化粧がダメなのは理解出来ない」
「そもそも、何でダメなのか理解不能」
「文句言ってる人は自分の顔を見てから言え」等々。
これに対し、
「身だしなみは人前に晒すものではない」
「人の不快に思う事をやらないのが常識でありマナー」
「あなたのような人に何を言っても無駄だから勝手にしろ」
等々の反論・意見が数多く書き込まれていた。多少、語彙は異なるかも知れないが、おおよその会話の内容はこのようなもの。
しかし、これらの意見に対する当人からの目立った反論はなく、ほぼサンドバッグ状態で攻撃を受けていた。
批判的意見の中には、「家庭で親から常識を教えてもらえなかった可哀想な人」という指摘が幾つかあった。
なるほど・・・
私も、電車の中での化粧を不快に感じるものの一人であるが、何故、不快であるのかが自分自身で理解出来なかった。ともかく、目に入ると「あの人、何でこんなところで化粧しているんだろう?」と感じ、気になり、何やら気持ちが落ち着かない。
ずーっと前から、気になりながら理由は分からぬままだった。
彼女からは「そんなこと、気にすんな」と言われていた。しかし、彼女も「親が教えなかったんじゃない?」とは言っていた。
人は教えられないと、電車の中、公衆の面前で、どのようなことでもやるものなのか・・・?
これって、親から刷り込まれた知識であり、後知恵なのか?
「大手小町」には、
「電車の中で、髭を剃ったり、無駄毛の処理をする人はいないでしょ。それと同じ。家でやりな」
という意見もあったが、私は京浜東北線の中でそれらをやる人を見ている。髭をピンセットで抜くおっさん。顔の無駄毛を同じくピンセットで抜く(若い)女性を。
抜いた後の毛は、一体、どうなるのだろうか。
考えただけで気持ち悪い。
地下鉄の中で、隣に座っていた女性が化粧をするだけでなく、だめ押しにヘアスプレーまで振り撒いたものだから、さすがにその時は文句を言った事がある。
恐らく、今の日本では、男女を問わず電車の中では何でも「アリ」なのだ、と思う。
さすがに、着替えまではやらないだろう、と思うかも知れないが、実は電車の中の着替えは、化粧よりも歴史が古い。
バブル以前からある。東京近郊に済むJKが電車の中で制服から普段着に着替え、原宿辺りに群がる、と言う構図は80年代からある。JKは、昔から歴史を創り続けているのだ。
人の気持ちが鈍感になったのかも知れない。
人前で「あくび」はするものではない。
どうしてもする時には口を手で押さえてするものであったが、最近、このような振る舞いをする人は男女ともにめっきりいなくなった。
先日も、目前で女性がのどちんこと被せた銀歯が全て見える位の大きなあくびをやってくれたが、その顔はえげつなく汚く見えた。
嗜みも、奥ゆかしさも今の日本からは失われたのだ。
そう思っていると、少し離れた場所にいる工事現場帰り風のワイルドなおっさんが、口を押さえながらあくびをしているのを見て、思わず笑ってしまった。「それ、逆だろう・・」
・・・
ふと、考えたのであるが、これらの振る舞いが何故ダメなのか、という理由が分からない人が増えたのは、「恥を知る」ことが失われたからではないだろうか。
「恥」の概念は、人間にしか備わっていない感情だとも言われる。これを失う事は、人間らしさの一部を捨ててしまうことなのかもしれない。
「恥」って一体どのような感情なんだろう。上手く、説明出来ない。
「他人から可哀想な人」と哀れまれる、あるいは見下されることを、「嫌だ!」と思う感情?
「当然知っているべき、備えているべきものを持っていない”軽蔑すべき”人」と思われる事を嫌う感情?
いずれにせよ、他人から「この人はダメな人だ」と見られる事が「嫌だ」という感情が含まれているのではないか。
社会通念や常識やマナーは、この「ダメ」の定義の中に含まれているのだと思う。
だから、人によって「ダメ」の価値判断が異なるケースが出てきて、それが論争を呼ぶのではないだろうか。
この「ダメ」の中に、日本人固有の「理由なき同調圧力」が含まれるケースもあるから困る。
いくら何でも、そこまで厳しく言うことはないだろう、という事案であっても、世の中のトレンドによっては、白い目で見られ、排除の論理で切り捨てられるようなケースもあり得る訳だ。
これは、日本人の世界でも類を見ない行動・思考形態の均一性・画一性からくるものであろうか。いずれにせよ、度を過ぎると手に負えなくなる事も事実。若い方々がそれらの一部の指摘に辟易している側面もあると思う。
しかし、多くの人が明確な違和感、嫌悪感を持つものは、やはり社会通念的には「ダメ」なことだと思う。明確な線引きは出来ないが。
某TV司会者の息子の不祥事に対し、親が世間からの誹謗中傷を受け、番組を降板するのは、果たして”社会のコモンセンス”なのか?
それとも、本人が言うように”やり過ぎ”なのか?
この件ひとつをとってみても(どうでも良い事であるが)、私には事の判断がつかない。私は、別にあの司会者が存在しようがしまいが、どちらでも良い。
しかし、彼がこれまでの自らの言動を省みて、「恥を知るべきか否か」と言うのであれば、何とか結論は出せる。「降板」だ。
彼の芸風から見て、「人の振り見て我が振り直せ」ということでOUTで良いと思う。
「恥を知る」との視点で、私たちの行動・立ち振る舞いを振り返ってみることに一定の意義はあるのではないだろうか。
・怖い人達にお金を貸していた銀行
・嘘ばかりのメニュー表示で人を騙していたレストラン
・点検をさぼっていた鉄道会社
・根拠も無く「安全」を連呼し対策を怠っていた電力会社
・嘘の未来予測により借金してまで巨大建造物を作らせる役人
・マニフェストを作っておいて自ら破り捨てる政治家
・聖域を謳いながら守れない人達
・教職者を名乗りながら子供の人権を蹂躙する変態オヤジ
・死ぬまで地位に固執する企業経営者、そのOB、ジジイ達
皆、「恥を知る」べきだ。恥ずかしくないのか?プロフェッショナルとして。
ほかにもまだ挙げられるが、止めておく。
日本には、恥の文化があるらしい。
それを私は肯定するものではない。
しかし、そんなもの、目には見えないし、どのようなものなのか分からない。何となくは理解出来るが。
そんな、フワッとしたものを拠り所に、日本人としての精神性を高める事なんて無理だ。
そんなのに、ついていけない。
しかし、どこにでも座り込む、場所構わずモノを食べる、廻りを顧みず傍若無人の振る舞いをする、などはやはり、慎むべきだ。
私たちは「恥」を自覚せねばならない。
7年後にはオリンピックが来る。
世界中の人達が日本にやってくる。そこで、おかしな日本人を見せる訳にはいかないだろう。
「O・MO・TE・NA・SHI」をアピールしている場合ではない。
オリンピックの前に、私たちは「恥」を思い出さねばならない。